■ネットになると攻撃的になってしまう人たち
そもそもネット空間には攻撃的なやりとりが非常に多いと言われる。
実際、ツイッターを使っている人たちは、攻撃的なツイートをしている人をよく見かけるという。自分の書き込みに対して攻撃的な批判や中傷的な書き込みが返ってきたという人も少なくない。自分自身も、ネットになるとつい攻撃的なことを書き込んでしまうという人もいる。
ネット空間でのやりとりを見ていると、相手の反論を許さないような雰囲気が漂う。建設的な議論によってより良い結論にたどり着こうとか、気づきを得ようといった感じではなく、相手を打ち負かすことで自分の優位を誇示しようといった感じがある。
また、普段は遠慮気味でおとなしく穏やかな感じの人物が、ツイッターやオンラインゲームになると、口汚くののしったり、攻撃的な発言をしたりするというのも、しばしばあることだ。
■「幻想的万能感」と「自己誇大感」で好戦的に
ネット空間でつい攻撃的になってしまう理由として、まず第一に、ネット上のやりとりでは相手に配慮する必要性が低いということがあげられる。
対面の場合は、こちらが攻撃的なことを言った場合、相手の傷ついた様子や腹を立てた様子、困った様子、あるいは悲しそうな様子が、表情や声の調子で伝わってくるし、言い返してくることもある。
だが、ネット上のやりとりでは、相手の様子が伝わってこない。まずは一方的にこちらの言いたいことを書き込むだけである。目の前に相手はいないので、対面と比べたら、相手をそれほど意識せずに言いたいことを言いやすい。
第二に、ネット上では幻想的万能感をもつ人たちが発信していることが多いということがあげられる。
ネット社会になって、その気になればだれもが不特定多数に対して発信することができるようになった。不特定多数への発信は、社会的に大きな影響力をもつため、自分は大きな影響力を行使できる、自分は何でもできる、といった幻想的万能感をもつ人たちが出てきた。
また、ネットで積極的に発信している人は、幻想的万能感をもち、自己誇大感を抱えているため、自分が絶対正しいと思い込み、人の意見に耳を貸さない傾向がある。そのため、反論されたりすると、ムキになって応戦する。
■スマホが冷静さを取り戻す時間を奪った
第三に、匿名性が保たれるということがある。自分がだれだか相手にも周囲にも知られないわけだから、自分は安全な場所に身を置きながら人を攻撃できる。
匿名性が攻撃行動を促進するというのは、だれもが経験的に納得できるはずだが、心理学の実験によっても証明されている。
第四に、スマホによって瞬時にネット上で反応できるようになったことがあげられる。パソコンの時代には、ネット環境があっても、家に帰ってパソコンを起動しないと書き込めなかった。そのため、学校や職場で、あるいは帰り道とかで腹立たしいことがあって、「書き込んでやりたい」「こき下ろしてやりたい」という攻撃的衝動に駆られても、その場ではどうにもならず、帰ってからということになる。
だが、家に着くまでに頭が冷えて、「もう、いいや」といった気分になる。あるいは忘れてしまう。パソコンの時代には、いやでも冷静さを取り戻すための時間が与えられていたのである。
ところが、スマホの時代になって、攻撃的な書き込みをしてやりたい衝動に駆られたら、その瞬間に書き込んで発信することができるようになった。冷静な判断抜きに衝動に任せて発信してしまうため、現実的な配慮を欠くことが多く、衝動的かつ攻撃的な発信がそこらじゅうで猛威を振るうようになっている。
■現実世界でも自己中心的な行動が目立つように
ネット炎上がしばしば話題になるが、そのような衝動的に反応する傾向が、ネットのみならず現実世界でもよくみられるようになってきた。
幼稚園や小学校の運動会などで、わが子や孫の晴れ姿を撮影しようとする保護者たちの最前列の場所取りが過熱化したり、後ろの人に配慮せずに三脚を立てて撮影していてトラブルになったりと、自己中心的な行動が目立つようになってきた。そんななか、学芸会や校内合唱などで、わが子が主役に抜擢されないと、
「なぜ、ウチの子が主役じゃないんですか?」
「どうして、ピアノの担当はウチの子じゃないんですか?」
などとクレームをつける保護者が増えてきたため、幼稚園も学校も、みんなが主役となるような演出に配慮するなどといったおかしなことが起こっている。
■桃太郎を16人の生徒が演じる不思議
たとえば、学芸会において、何人もの主役が入れ替わるというような不自然なやり方がとられることもある。桃太郎を16人の子が演じたといったケースさえある。それは、「なぜ、ウチの子が主役じゃないんですか?」といった保護者のクレームを恐れてのことだという。
でも、だれもが主役でなければならないのだろうか。サポート役は負け犬であり、犠牲者なのか。主役になれなかった人の人生は価値がないのか。そうだというなら、そのような価値観が多くの人たちに挫折感を抱かせることになる。
そうした価値観でいけば、俳優のなかでも主演俳優だけが価値があり、脇役の俳優はみんな負け組で価値がないということになる。演劇や映画の世界でも、俳優や監督だけが価値があり、それをサポートする道具係や照明係、メイク担当などの裏方は価値がないというのだろうか。
スポーツ観戦に行くと、応援団もチアガールも必死に応援している。主役はあくまでも選手だし、いくら応援団やチアガールが頑張ったところで、チームの勝敗には関係ないかもしれない。たとえ勝っても、選手と違ってヒーローにもヒロインにもなれない。だが、一生懸命に応援している人は、自分が主役かどうかといった自己中心的な構図でものごとを見ているわけではない。そんな打算よりも、一体感と役割意識で充実し燃焼している。
そのように冷静に振り返ってみれば、わが子が主役に抜擢されなかったからといって大騒ぎする必要などないことに気づくはずだ。
■わが子を注意するより学校にクレームをつける
夏になると、どこの学校でも熱中症になる生徒が出てくる。そこで、一定の温度より気温が高いときは戸外での運動をやめるとか、水分補給を心がけるなどの対策を取るところが多い。それでも、たまに熱中症気味の生徒が出ることがある。
その保護者が冷静であれば、本人に水分補給に気をつけるように注意したり、家でも塩分の補給を心がけたりといったことをして、いちいち学校にクレームをつけるようなことはない。クレームをつけるとしたら、部活の先生や先輩が部活中の水分補給を許さないとか、炎天下で長時間運動させるというような特別な事情がある場合に限られる。
ところが、そんな特別な事情もないのに、わが子が熱中症気味になったといって学校にクレームをつける保護者がいる。すると、学校側は、とくに落ち度があったとは思えないのに、戸外での部活を制限したりする。一人、あるいはほんの数人が熱中症気味になったというだけで、何の問題もなくふつうに部活をしていた数百人の生徒たちの行動が制約を受けるのである。
このような学校側の対応も、まさに過剰反応と言ってよいだろうが、保護者からの過剰反応とも言えるクレームを恐れるあまり、過剰な対応をしてしまうのである。
■「子どもが可哀想」で田植え体験をやめてしまう
ゲームやインターネットなど、人工的な空間で遊ぶことが多い今どきの子どもたちは、自然から離れた生活を送っているため、自然体験を与えるのは非常に大切なことである。
自然体験教育の一環として、田植えを経験させたり、芋掘りを経験させたりということが、しばしば行われている。だが、そこでも保護者の過剰反応があり、それに対して幼稚園や学校側も過剰な対応を取りがちとなっている。
たとえば、田植え体験に対しても、うちの子は泥水に入るのを嫌がっているから、このような活動はやめてほしいといったクレームや、あんな足腰を酷使する重労働をさせる必要はないだろう、可哀想だといったクレームがつくことがある。そんな軟弱なクレームにいちいち屈することはないと思うだろうが、
「教育委員会に訴えるぞ」
というような脅し文句を、保護者だけでなく生徒までが口にする時代であり、保護者からのクレームを過剰に恐れるため、田植え体験という貴重な教育をやめてしまう学校が出てくる。
■保護者も学校側も思考停止状態になっている
芋掘りというのは、田植えよりもっと多くの子どもたちが昔から体験してきたものであろう。ところが、芋掘り体験に対しても、保護者からのクレームがあるようなのだ。たとえば、子どもによって掘って家に持ち帰る芋の大きさが違って不公平だといったクレームがあるらしい。わが子が持ち帰った芋が小さすぎて不満なら、
「もっと大きいのを掘れなかったのか。今度一緒に行って芋掘りのコツを教えてやろう」
などと、わが子に言うべきであって、先生に文句を言うようなことではないだろう。だが、今の幼稚園も学校も、保護者の過剰反応的なクレームにも過剰に対応する。
困った先生から相談を受けた農家の人が、つぎからはそのような不公平が起こらないようにと、小さな芋を間引きし、できるだけ均一な大きさの芋を掘れるように配慮することさえあるようだ。
このように、非常識で自己中心的な保護者からの理不尽なクレームがまさに思考停止による過剰反応であり、それに対して学校側が過剰に対応することも思考停止と言える。
ごく少数の非常識なクレームにビクつき、いちいち対応するために、過剰反応的なクレームが後を絶たず、それによって良識ある多くの生徒たちに不利益が生じることになるのはいかがなものか。そこには思考停止による不適切な反応の連鎖がみられる。
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榎本 博明(えのもと・ ひろあき)
心理学博士
1955年東京生まれ。東京大学教育学部教育心理学科卒業。東芝市場調査課勤務の後、東京都立大学大学院心理学専攻博士課程中退。カリフォルニア大学客員研究員、大阪大学大学院助教授などを経て、現在、MP人間科学研究所代表、産業能率大学兼任講師。おもな著書に『〈ほんとうの自分〉のつくり方』(講談社現代新書)、『「やりたい仕事」病』(日経プレミアシリーズ)、『「おもてなし」という残酷社会』『自己実現という罠』『教育現場は困ってる』『思考停止という病理』(以上、平凡社新書)など著書多数。
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(心理学博士 榎本 博明)
]...以下引用元参照
引用元:https://news.nifty.com//article/magazine/12179-2411363/