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海底1キロまで掘った大炭鉱で爆発炎上…日曜劇場の舞台・軍艦島が「閉山のカウントダウン」を始めた決定的瞬間(2024年12月8日)|BIGLOBEニュース -芸能ニュース/炎上まとめ

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海底1キロまで掘った大炭鉱で爆発炎上…日曜劇場の舞台・軍艦島が「閉山のカウントダウン」を始めた決定的瞬間

2024年12月8日(日)19時15分 プレジデント社

軍艦島と呼ばれる長崎市の端島 - 写真=共同通信社

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軍艦島こと端島の最盛期を描く「海に眠るダイヤモンド」(TBS系)で、三菱鉱業端島炭鉱の閉山の発端となった炭鉱事故が描かれる。この事故について残された史料を調べたライターの村瀬まりもさんは「1964年のお盆休み明けに、炭鉱内で自然発火が起き、ごう音とともに爆発的火災になって10人がヤケドで重症を負い、死亡者も出たと記録されている」という——。
写真=共同通信社
軍艦島と呼ばれる長崎市の端島 - 写真=共同通信社

■「海に眠るダイヤモンド」はついにシビアな炭鉱事故を描く

【玲央(神木隆之介)】「(閉山時の記念写真の中で)鉄平、どこにいるの?」
【いづみ(宮本信子)】「この写真にはいない。私も知らないの。彼が……鉄平がどうなったのか」

日曜劇場「海に眠るダイヤモンド」(TBS系)の第6話では、今後の衝撃的な展開が予告された。1950〜60年代に長崎県の軍艦島こと端島(はしま)で炭鉱会社の職員として働いていた主人公・鉄平(神木隆之介)が、1974年に端島炭鉱が閉山され、住民が一斉に離島したときには、そこにいなかったというのだ。

そして、12月8日放送の第7話では、1964年、実際に端島で起こった炭鉱事故をベースに、事故によって犠牲者が出た様子を描くようだ。事故に巻き込まれてしまうのは、鉄平か、それともリナ(池田イライザ)との間に子どもが生まれたばかりの兄・進平(斎藤工)なのか……。

端島の海底炭鉱は、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)の所有。明治期から三菱の財力と技術力を結集して作り上げた地底の大工場だったが、採れる石炭が良質ゆえに自然に発生するガスの量が多く、1956年にもガス突出により3人の死者が出ている。

【参考記事】「日曜劇場の舞台・軍艦島の炭鉱でガス事故発生…気温35度湿度95%の海底坑道に入ると8時間出てこられない過酷

■「自然発火し、懸命の消火にもかかわらず再度にわたるガス燃焼」

1964年に起こった重大インシデントについて、閉山後に編まれた『三菱鉱業社史』にはこうある。

昭和39年8月17日端島破中卸九片で自然発火が発生した。懸命の消火作業にもかかわらず、17、19の両日の再度にわたるガス燃焼もあって、やむなく消火のため八片以深の稼行区域全部の水没に踏切った結果、出炭ストップという重大事態に立至った。もともと八片以深は海面下940mで地熱も高く、自然発火のおそれが多かったところであったし、また22〜23t(トン)という低能率が問題となっていたので、この機会に思い切って水没箇所は放棄し、前記の三ツ瀬区域(編集部註:同じ端島内にある)の開発に全力を挙げることになった。そして三ツ瀬工事完了まで約1年2か月の出炭の空白を余儀なくされた。なお水没箇所に対しては、関係当局の指導と援助を得て閉山交付金が交付された。

事故発生時の報道では、全国紙より地元の長崎新聞が詳しい。事故当日の1964年8月17日の夕刊で、「坑内でガス燃焼 西彼端島 10人が軽いやけど」といち早く報じている。

■端島の保安要員10人が大ヤケドを負い、病院に運ばれた

翌18日の朝刊では、写真入りで続報を展開し、保安要員のケガは軽症から重症に訂正されている。

盆休みの終わった17日昼前、西彼端島炭鉱の坑内で石炭層が自然発火。充満したガスがごう音とともに燃えひろがり、保安要員10人が全身にやけどをして重傷を負った。

同日午前11時40分ごろ、西彼高島町端島、三菱鉱業高島鉱業所端島抗(松倉慶次鉱長)の坑口から約三千メートルの九片七目貫きと八目貫きの沿層坑道で、同鉱の抗務課長代理、稲池昭雄さん(42)ら保安要員10人が自然発火した石炭層に注水作業中、突然ごう音とともに火が燃えひろがり火と煙に包まれた。

近くでごう音を聞きつけた鉱員がただちに救出作業をして同日午後0時半ごろまでに全員を助け出し、同鉱付属端島病院に運び込んだ。稲池さんらは酸素吸入、血清注射などの手当てを受けているが、10人とも全身に第二度火傷と打撲傷を負い2週間から3週間の重傷。また坑内にはこのほかに鉱員94人と下請け鉱員30人がいたが無事だった。

同鉱ではただちに藤瀬正抗務課長ら保安要員が現場に行き、注水で消火作業を行うほか、酸素をしゃ断するため坑道を密閉する用意もしており、二次燃焼を警戒して午後4時の二番方から坑内への立ち入りを禁止した。(長崎新聞1964年8月18日朝刊)

掲載された写真は、端島の病院でケガをした鉱員たちがベッドに倒れ、医師の手当てを受けている様子。事故発生時の緊張感が伝わってくる。

■坑道でごう音とともに爆発的な火災が起き、火と煙に包まれた

端島の炭鉱は8月14日から16日まで盆休みだった。17日から炭鉱夫たちが三交代制の仕事を再開しようとしていたところ、夜中の2時半ごろ、パトロールをしていた職員が地下940メートルの現場で石炭が自然発火し黒煙をあげているのを発見し、10人で注水などをして消火作業にあたった。いったん午前6時すぎには火が消えて、「もう大丈夫」と、胸をなで下ろしたという。最初の火事は小規模だったと思われる。

しかし、その直後、石炭の自然発火で不完全燃焼した一酸化炭素とメタンガスが高さ約4メートル、幅4メートルの坑道の天井部分に充満し、突然燃え広がった。「ごう音」という描写から、まるで爆撃のような火災だったと想像できる。即死者が出なかったことが不思議なぐらいだろう。

当時は日本全国に炭鉱があった。1964年ごろには全体的に石炭の生産力が落ち、一時は16炭鉱を所有した三菱鉱業も福岡の筑豊など老朽山を整理。北海道の「大夕張」、端島に近い長崎の「高島」、そして「端島」という優良炭鉱に人員を集中させていたが、それでも炭鉱事故は毎年のように起きていた。

1930年頃の端島(軍艦島)(写真=誠文堂新光社『日本地理風俗大系 第13巻』より/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

■前年には三井の炭鉱で458人の犠牲者を出す大事故が起きていた

前年の1963年には戦後最悪と言われる福岡の「三井三池炭鉱大爆発事故」が起きていた。犠牲者の数はなんと458人。

この事故は人災の要素が大きく、10両編成の鉱車の連結器が切れて坑内を暴走。堆積していた炭じんによって火花が引火、大爆発を起こしたという。救出され、かろうじて一命を取り留めた839人も一酸化炭素中毒で、歩行や会話が困難になる、記憶力が低下するなどの高次脳機能障害を負った。もちろん、経営する三井鉱山は、この事故で大損害を負うことになった。

そんな大事故のニュースは、当然、端島の炭鉱夫もみな知っていて、同じような事故が起こることを恐れていただろう。WEBサイト「軍艦島デジタルミュージアム」には、元島民による証言が掲載されている。

端島の炭鉱夫だった父親は、8月17日当日、坑内に入って採炭作業することになっていたが、なぜか胸騒ぎがして出勤したくなくなり、親しい友人に交代してもらったところ、事故が発生。その友人は事故でケガを負ってしまい、父親は罪悪感を抱えることになったという。

軍艦島ナビゲーター・木下稔氏による「事故のトラウマ

2012年、軍艦島の65号棟(写真=Jordy Meow/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

■辰雄(沢村一樹)のモデルか、松倉慶次炭鉱長は水没を決断

端島の事故では19日の夜にも再びガス燃焼事故が起こり、作業中の坑内夫8人がヤケドをした。くすぶりつづける火を消すため、土のうで坑道の密閉していたところで、また突然ガスが燃焼したのだ。ヤケドをした8人はすぐに救護隊員によって病院に担ぎ込まれた。

「海に眠るダイヤモンド」の辰雄(沢村一樹)のモデルとも思われる松倉慶次炭鉱長は、1940年に東京大学工学部を卒業し三菱に入った技術力のあるトップだったようだが、『三菱鉱業社史』が記録するように、消しても消しても続く火災にお手上げ、為す術がなかったのだろう。

長崎新聞にも「同鉱は安全目標に“自然発火”の防止をかかげ、この3年間一度もこのような事故を起こしてはおらず、この日消火作業に当たっていた稲池さんらは坑内保安技術のベテラン。ガス発生の観測も怠らなかったと思われるだけに、関係者も事故の原因に首をかしげている。」(1964年8月18日付朝刊)。

■「端島が終わる…」と言う主人公・鉄平(神木隆之介)の思い

松倉炭鉱長は、三菱が150年以上開発を続け、海底1000メートルまで掘り下げた坑道を水没させるという決断をした。ドラマの予告編でも「端島が、終わる……」という鉄平のセリフが流れたが、その決断の場面は、クライマックスとして描かれるようだ。

端島の損害は当時の金額で2億〜3億円と推定されている。米ドルが300円台だった時代、現在なら数倍から数十倍の損害だろう。三菱鉱業の株価も8月に54円だったものが、事故後の9月には46円にダウン。

せっかく経営の合理化を行っていたところだったのに、不運にも端島の事故という異変が起き、経営的にも窮地に立たされた。水没させた海底炭鉱について「この復旧を当社首脳部はいろいろと検討していたが、このほど、それを全面的に放棄」と『週刊日本経済』は報じている。

軍艦島の炭鉱関連施設跡(写真=VKaeru/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

■被害者は死亡1人重軽傷22人、それでも戦後最少だった

結果的にこの事故による被害者は、死亡1人、重軽傷22人。この年は他の炭鉱でも事故の原因別で見て「ガス、炭じん爆発」で亡くなった人が8人、合計9人が犠牲となったが、その数字は「死亡者9人のみで、戦後最低を記録した」(『鉱山保安年報』昭和39年度)。

1964年、全国に炭鉱労働者が17万3712人いた中で事故死したのは合計342人。それでも、「三井三池炭鉱大爆発事故」の起こった前年に比べれば半数以下なのだから、まさに炭鉱で働くということは命懸けだったのだと実感させられる。

そして、ドラマで描かれるように、エネルギー源のないこの国では、毎年それだけの犠牲を出しても、人力で石炭を掘る必要があったのかもしれない。しかし、同時に、これだけの人命を奪う石炭産業のあり方自体が問われ、産業の衰退を招いていく。

果たしてドラマでも死亡者が出るのか。そして、それは端島で生まれ育ち、長崎大学を出てからも炭鉱にUターン就職するほど、誰よりも端島を愛していた鉄平なのか。第1話で、おそらく閉山以降初めて40年以上の歳月を経て端島に戻ったいづみ(鉄平の幼なじみの朝子)が、見学の船の上で崩れ落ちるように泣いていた様子が思い出される。

参考文献:
『三菱鉱業社史』三菱鉱業セメント株式会社総務部社史編纂室、1976年、国立国会図書館デジタルコレクション
『鉱山保安年報』昭和39年度、通商産業省鉱山保安局、1965年、国立国会図書館デジタルコレクション

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村瀬 まりも(むらせ・まりも)
ライター
1995年、出版社に入社し、アイドル誌の編集部などで働く。フリーランスになってからも別名で芸能人のインタビューを多数手がけ、アイドル・俳優の写真集なども担当している。「リアルサウンド映画部」などに寄稿。
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(ライター 村瀬 まりも)


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]...以下引用元参照
引用元:https://news.biglobe.ne.jp/economy/1208/pre_241208_3385641120.html

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