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「佳桜」「桜花」「知道」だったらどうだったか…中国と無関係な初めての元号「令和」が受け入れられた本当の理由|ニフティニュース -芸能ニュース/炎上まとめ

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■首相側近の元号案「佳桜」「桜花」「知道」

4月21日、共同通信が元号「令和」をめぐる「スクープ」記事を配信した。新元号選定時、安倍内閣の首相秘書官だった今井尚哉氏が、事務方とは別に3つの独自案を安倍晋三首相に示していた、というものである。国書(日本古典)に基づく「佳桜」、「桜花」、出典がない造語である「知道」の3つで、安倍首相の意向に沿ったものと見られている。

今回報じられた内容については、すでに日本財団の笹川陽平会長が、雑誌『中央公論』2024年1月号で細かく明かしている。笹川氏が共同通信の記事を受けたブログで、雑誌記事全文を転載した。あらためて、「令和」という元号、そして、それを選ぶプロセスについて考えさせられる。

このニュースは、2つの点で興味深い。ひとつは、「令和」がこれまでの伝統を変えたことであり、もうひとつは、候補になった元号のキラキラ感である。

ひとつめの伝統の変化とは、「令和」は歴史上はじめて国書(万葉集)からとった点である。日本では最古のもの=「大化」から「平成」までの247の元号は、すべて漢籍(中国の古典)に由来していたが、笹川氏は、「新元号は中国の古典からの引用をやめ、わが国独自の自由な発想で定めてほしく思う」と、2019年1月3日付産経新聞朝刊の「正論」欄で主張していた。

■安倍氏の望んだ「わが国独自の自由な発想」

安倍氏が同調したのは、この点であり、また、私自身、元号について各所で解説するたびに感じていたムードにも通じる。そろそろ、自国(日本)の古典に基づいた元号にすべきでは、といった「空気」である。一面では、国粋主義というかナショナリスティックにも見えるものの、既に中国が元号を取りやめて久しい以上、日本独自のものを求める気持ちは、広く共有されていたように見えた。

また、「佳桜」、「桜花」、「知道」の3つの醸し出すキラキラ感とは、何か。文字の画数にある。「佳」、「桜」、「道」は、いずれも、過去の元号に使われた漢字に比べると、やや画数が多い。たしかに「慶応」や「寛永」もあっただけに、多すぎるわけではないものの、「昭和」に決めた政府の「元号選定手続について」のなかの「書きやすいこと」に照らすと、やや心もとない。

とはいえ、キラキラ感=悪い、のでも、劣っているのでもない。裏を返せば、笹川氏の、そして安倍氏の望んだ「わが国独自の自由な発想」に当てはまると言えよう。

共同通信の記事では、政府の事務方内では「万和」(ばんな)という「史記」を典拠とする候補が有力視されていたものの、安倍氏は、由来が「国書ではないことや濁音が入ることで難色を示した」とも報じている。

■令和の「記号化」と「タブー化」

「令和」が、どのように選ばれたのか。その過程は興味深いし、元号を専門とする私には参考になる、ありがたいニュースだった。安倍氏が国書にこだわり、そして、その意向が伝統=中国古典由来を変えた。元号とは何か、どんな存在なのかを考える上で興味深い。

ただ、ここで考えたいのは、元号そのものについてではない。このニュースに象徴されている、「令和」にまつわる2つの傾向である。ひとつは「令和」(元号)の記号化であり、もうひとつは「令和」のタブー化である。

記号化とは、令和=いま・新しい、昭和=昔・古い、として、新旧を示すシンプルな目印になっている状況である。タブー化とは、令和という元号を天皇と同一視するあまり、非難はおろか、批判や意見すら許されなくなりつつある現状である。

話題になったドラマ「不適切にもほどがある!」を思い起こそう。主人公が行ったり来たりするのは、「昭和」と「令和」である。「昭和」は、古臭く旧態依然でありながらも活気のあった時代として、「令和」は、アップデートされたゆえに息苦しさもある現在として、わかりやすく対比された。

■人気ドラマで描かれた「昭和」と「令和」

最終回(第10話)の終盤で、「完全な平等なんてない 令和と昭和 男と女 容姿 性格 納税額 違う ちょっとのズレなら ぐっとコラえて 寛容になりましょう 大目に見ましょう」と歌われる。

ドラマでは38年もの隔たりがあるのに「ちょっとのズレ」しかない。「寛容にな」れば「大目に見」られるくらいの違いに過ぎない。「昭和」は古さを、「令和」は新しさの代名詞にとどまり、どちらも時代としての特徴を示してはいない。もちろん、元号に結びつくはずの天皇は出てこない。

なぜ、元号と天皇がつながるのか。それは、明治への改元とともに、一世一元=ひとりの天皇にひとつの元号を決めたからであり、1979年に元号法として定めたからである。さらに、元号=天皇、であるばかりか、それは、時代のイメージにもつながるのだと、これまで言われてきた。

しかし、そうした図式は、もはや成り立たない。

「不適切にもほどがある!」に見られるように、あるいは、「あの人は昭和だから」とか「まだ昭和を引きずっている」といった揶揄にあらわれているように、「昭和」は「昔」しか意味しないのではないか。

■内閣府の「もはや昭和ではない」がスベった理由

事実、内閣府の「男女共同参画白書」は、2年前に「もはや昭和ではない」と(高らかに?)宣言しているが、そのフレーズはほとんど広まっていない。もう「昭和」は過ぎ去ったのは当たり前だからであり、「昭和」が特定の何かを指していないからである。古い、遅れている、変わらない、そんな時代遅れ感と、少しの懐かしさを醸し出す。それが「昭和」なのである。

翻って「令和」もまた、プラスもマイナスも、どちらの印象もない。「今は令和だから」という表現は、単純に「今のご時世」の言い換えにとどまる。「令和」の5年間にも、新型コロナウイルス感染症の拡大をはじめとして、いろいろな出来事があったのに、時代の色は見えないし、ポジティブにもネガティブにも、なっていない。それぐらい、元号は無味無臭なのではないか。

他方で「令和」という元号は、ほとんど批判されていない。これがタブー化である。

■大炎上を招いた「令和」への批判

歴史学者の本郷和人氏は、「令和」が発表された、2019年4月1日の翌日、テレビ朝日の「羽鳥慎一モーニングショー」で、次のように述べ、大炎上した。

「『令』は上から下に何か命令をするときに使う字。安倍首相は、国民一人ひとりが自発的に活躍していこうという想いを込めたとおっしゃるが、その趣旨にはそぐわないのではないか」私ごとながら本郷氏は、私の博士論文の審査に至るまで指導を受けた先生であり、その見解にも頷くところが多いものの、ここでは、それについて触れるのが本題ではない。「令和」への批判は、本郷氏を除いては、ほとんど見られないのではないか。批判のなさが、この元号を特徴づけているのではないか。この点を考えたいのである。

たとえば「平成」については、作家の丸谷才一氏が、2004年(平成16年)に朝日新聞のコラム(「元号そして改元」)で「この数十年間で最悪の名づけは平成という年号だった。不景気、大地震、戦争とろくなことがないのはこのせいかも、と思いたくなる」と痛罵している。

■日常生活で元号を使う人は半数に満たない

丸谷氏の述べる通り、元号は縁起ものであり、一世一元を定めるまでは、大火事や戦乱などのムードを変えるために、たびたび改元していた。その流れに棹させば、パンデミックや戦禍、大災害が続く「令和」についてもまた、「最悪の名づけ」との評論があっても不思議ではない。

しかも、元号を決めるプロセスについては、情報公開が進んでいる。毎日新聞が報じたように、「平成」を決めたときに比べれば、「令和」に関しては「残されている内容が多い」ため、「将来、公開されれば、秘密のベールに包まれた元号選定の一端が明らかになる可能性は高い」。

元号の神秘性は薄まり、自由に語れるように変わってきているのではないか。そう考えるのが妥当なのかもしれない。

さらに、朝日新聞が改元の前(2019年3月)に行った調査によれば、日常生活では「新しい元号」を使うとの答えが40%に対して、「西暦」が50%との回答だったという。「昭和」から「平成」への代替わりにあたっての調査での回答(66%対25%)から逆転しており、「元号」は、ふだんの暮らしからも遠ざかりつつある。

にもかかわらず、「令和」を悪く言う声は、目立たない。

■「令和」と天皇の結びつき

それどころか、「令和」の時代の天皇や皇后、さらには、愛子さまについては、ネット上もマスメディアも、諸手を挙げて褒め称えるばかりではないか。いまの天皇御一家が、「平成」の間に、どれほどのバッシングにさらされてきたのかを思い起こすと、隔世の感では済まない、転生したかのような目眩を覚える。

「令和」は「新しさ」を意味するとともに、天皇や皇后、愛子さまを含めた御一家のイメージに直結しているために、悪く言われない。そう、考えられるのではないか。元号=天皇=時代の図式が消えたからこそ、「令和」=天皇御一家=いま(新しさ)へと形を変えたのではないか。

それゆえに、「令和」も天皇皇后両陛下も愛子さまも、みんな等しく悪くは言われないどころか、シンパシーしか見られない。ドラマ「不適切にもほどがある!」でもまた、「令和」はコンプライアンス過剰と、おちょくられ、「生きづらい」とされるとはいえ、全否定されはしない。もちろん、「令和」が現在であるのだから受け入れるほかないのだが、それでも、「平成」を「最悪」だと評した丸谷才一氏のような見方はない。

ここに、元号、というよりも、「令和」へのタブー化を見てとれるのではないか。

■「元号」とうまく付き合うために

いや、もともと「元号」とは、その漢字(元の号)の通り、記号に過ぎない。新しい時代の始まり、という記号であり、「令和」の記号化とは、原点に戻っただけととらえるべきなのだろう。だから、タブー化についても、あまり深刻に受け止めなくても良いのだろう。

記号として、必要に応じて使い分ける、そんな程度の作法を、良くも悪くも、私たちは身につけているのであり、過剰にタブー視して、崇め奉ってはいないからである。そのためには、天皇御一家への尊崇の念が昂じるあまり、皇室や皇族をめぐる議論が、感情論に流れ過ぎたり、罵詈雑言が飛び交ったりするような、そんな事態だけは避けなければなるまい。

「平成」が5年を過ぎたころには、今回のように元号をもとに時代を振り返る雰囲気はほとんどなかった。当時の天皇陛下の記者会見でも、もとより「平成」の5年間についての質問すらなされていない。今は、それぐらい「令和」に注目が集まっているとも言えるし、逆に、それぐらい意識しないと味のない記号のままだとの危機感があるのかもしれない。

「令和」が、このまま記号化とタブー化の2方向に進むとしても、あるいは、別の傾向を見せるとしても、この元号を通して、国民の象徴である天皇をはじめ、皇室・皇族について考えを深めるきっかけにできよう。皇族数の確保、といった、数字だけではなく、この国のかたちをどうするのか。そのために元号は、日々の生活のなかで貴重な補助線を引いてくれるに違いない。

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鈴木 洋仁(すずき・ひろひと)
神戸学院大学現代社会学部 准教授
1980年東京都生まれ。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。博士(社会情報学)。京都大学総合人間学部卒業後、関西テレビ放送、ドワンゴ、国際交流基金、東京大学等を経て現職。専門は、歴史社会学。著書に『「元号」と戦後日本』(青土社)、『「平成」論』(青弓社)、『「三代目」スタディーズ 世代と系図から読む近代日本』(青弓社)など。共著(分担執筆)として、『運動としての大衆文化:協働・ファン・文化工作』(大塚英志編、水声社)、『「明治日本と革命中国」の思想史 近代東アジアにおける「知」とナショナリズムの相互還流』(楊際開、伊東貴之編著、ミネルヴァ書房)などがある。
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(神戸学院大学現代社会学部 准教授 鈴木 洋仁)

]...以下引用元参照
引用元:https://news.nifty.com//article/magazine/12179-3037257/

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