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■亡き息子との唯一の「接点」だった場所も
森未子さん(78)
「松林いっぱいあったんだけど、皆流されたよ。あんなに少ない」
森勝志さん(78)
「あそこの堤防を超えてきた、津波が」
宮城県岩沼市に住む森さん夫婦。震災後、13年間毎月欠かさず訪れる場所があります。
森勝志さん
「(Q.この辺りが家あったところ?)はい、そうです。俺は『戻っちゃいけないよ』って指示したんだけど」
地震発生後、一緒に避難した息子の喜勝さん(当時42歳)。荷物を取りに戻った自宅で津波に流され、帰らぬ人となりました。
森未子さん
「涙も出なかったです。でもね、津波があった後に、電話かけると鳴るんだよね。ぬれてたんだと思うんだけど、電話鳴ってたから大丈夫かなと思っていたのね」
夫婦に残された、亡き息子との「唯一の接点」が“戻りたくても、戻ることのできない”かつての我が家でした。
森未子さん
「やっぱり来たくなるんだなぁ。なんでもなく、来たくなるんだな」
「(Q.この場所はどういう場所ですか?)なくしたくないね。なくしたくない。こうして、こんなところでも、あった方が良いかなと思ってる。土地をなくしたくないなって」
13年前、家族そして、ふるさとを奪われ、“新たなまち”で生きる決断をした人々の今を見つめました。
宮城県南部に位置する岩沼市。沿岸部は太平洋へと注ぐ阿武隈川の河口に、美しい田畑と家々が立ち並ぶまちでした。しかし、13年前のあの日。
2011年発災後の空からの映像
「完全に水没しています。集落一体が水没してしまっています」
岩沼市は東日本大震災で最大規模の津波被害を受け、面積の半分が浸水しました。市は沿岸部を「新たに住宅を建てることを禁止する」『災害危険区域』に指定。多くの住民が、突然、ふるさとに別れを告げることになりました。
岩沼市玉浦西に住む菊地正広さん(70)。震災後の集団移転で、このまちに移り住みました。
玉浦西二の倉地区会長 菊地正広さん
「『危険区域だから出て下さい』って言われて、『あぁそうだべな』と思って、『皆が出るんだから出なきゃいけねぇんだべな』と」
東日本大震災では集団移転が324の地区で計画されましたが、整備した移転先に住民が入らず、空き地が生まれるなど、多くの問題も。
■海外も注目「集団移転の成功例」の街
そんななか、岩沼市は「集団移転の成功例」として、国内外多くの自治体からの視察が絶えません。
岩沼市の集団移転が高く評価された理由の1つが、「元の集落ごとの移転」でした。市は浸水した沿岸部の6つの集落を内陸部に移転することを決断。その際、新たな街に「元の集落ごと移転する」という方針を取ったのです。
菊地さんがこの日訪れたのは、同じ町内に住む小林さん夫婦。
小林隆子さん(83)
「ほら、圧迫骨折なったもんだから」
菊地正広さん
「なにしたの?」
小林隆子さん
「なにしたって、年寄りだから」
同じ二の倉地区から移転した3人は、今でもこうして頻繁に顔を合わせていると言います。
集団移転をした他の自治体では、高齢者らを優先するなどして移転を行った結果、住民がバラバラとなり、孤独死などが問題となりました。
小林隆子さん
「ここに来てからも強い地震があったのね、私たちも高齢だからどうしていいか分からなくて、うろうろしてたら、町内会長(菊地)さんが『大丈夫ですか!』っていち早く夜中に来てくれてね、本当に感謝してます」
ふるさとを失った悲しみも、共に移転した同郷の人達と想いを重ねることで、乗り越えてきたと言います。
小林隆子さん
「それは(ふるさとのことを)思い出しますけども、仕方ないなぁと思ってね。私たちだけじゃないから…前向きに考えなくちゃいけないなと思っています」
■100回超の話し合いから「新たな街」
岩沼市の集団移転で、もう一つのポイントとなったのが「住民発のまちづくり」でした。他の自治体では、行政が新たな街の構想を作ることが多かった一方で、岩沼市では、住民たちに白紙の状態から委ねました。100回を超える住民の話し合いの末に出来上がったのが、このまちだったのです。
大型ショッピングセンターなどもでき、生活の利便性も大きく向上しました。
菊地正広さん
「ここの道は貞山堀をイメージした。橋の名前も貞山運河『長谷釜橋』と。これを(ふるさとにあった)橋に見立てて、デザインしたんだね」
「失ったふるさとを忘れないために…」。その“足跡”を新たなまちに残しました。
なかでも、住民たちの強い想いが込められているのが…。
菊地正広さん
「『イグネ』って言って、昔からの風よけ」
江戸時代から、東北地方の家々を北西の冷たい風から守ってきた「イグネ」。集団移転時、住民は負担を覚悟でイグネを植え、育てることを決めました。協力して、手入れすることがコミュニティーの維持にもつながっていると言います。
「災害への備え」も、まちの至る所に…。
菊地正広さん
「これ(ベンチを)外すとカマドになって、その辺の薪を拾ってきて、ご飯を炊いたり。ここはトイレなんだけど、災害用トイレ」
住民たちの想いを反映した「災害に強いまち」も実現しました。津波で息子を亡くした森さん夫婦はふるさとへの想いを胸に抱きつつも、この“新たなふるさと”にも愛着が湧いてきたと言います。
森未子さん
「私としては住みやすい。私はここに(集団移転して)来て良かったと思ってる。やっぱり他の人と一緒に、ここに来たから良いんだと思う」
■「危険区域」前に新たな家住民の想いとは
一方で、震災後、新たに家を建てることを禁止する「危険区域」に指定される前に家を修理し、集団移転をせずに、今もここに住み続ける住民もいます。
移転先のまちづくりの会長を務める森博さんは時折、ふるさとを訪れ、残った住民らとも交流を続けています。
安孫子勝子さん(82)
「(Q.なぜ集団移転しなかった?)自分が貧乏で育ったし、苦労しながらようやっと建てた家で。借金してまで向こう(集団移転地)に行くのは。『俺はいい。一生かけてこの家建てたんだから残る』って」
安孫子さんは「ふるさとに残る」という13年前の決断を悔やんではいません。
安孫子勝子さん
「寂しい時は家の前の畑の仕事したりなんだりしてるから…今までずっと(ここに)住んでるからね」
森さんは集団移転した人、しなかった人どちらの想いも理解できるからこそ、「正解はない」と話します。
玉浦西まちづくり住民協議会会長 森博さん(74)
「改めてね。やっぱり田舎をなくしたっていうことは寂しいことで、今でも寂しいなと思ってる。寂しいけど、13年経ってみるとね、住めば都だからね。能登の人たちも悩んでいると思うけども、家族、子どもたち、孫たち、親戚の人たちとじっくり先を見据えて話し合いするのが良いのかなと思ってます」
13年前に大切なふるさとを奪われた住民たち。今でもふるさとへの思いを胸に抱きつつも、“新たなふるさと”にも愛着が湧いてきたと話します。集団移転によって新たにできたこの街には住民たちの強い決意、覚悟、思いが込められています。これからも将来にわたって、まちが続くように想いを次の世代へと託す動きも見え始めました。この岩沼市の取り組みは、我々に多くの教訓を与えてくれたと感じます。
取材ディレクター 瀧尾春紀
(サンデーLIVE!! 2024年3月10日OA)
[テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp
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