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〈16歳で白血病〉「『元気になりました』と発信したら炎上しました」“がんサバイバー”のタレント・友寄蓮(29)が明かす、退院後の苦労
2024年8月18日(日)12時0分 文春オンライン
〈 16歳で白血病が発覚、医者は「あと少し発見が遅かったら、命が危なかった」と…タレント・友寄蓮(29)が語った“壮絶な闘病生活” 〉から続く
高校2年生のときに白血病になり、約100人から輸血の提供を受けたタレントの友寄蓮さん(29)。回復後、献血などの啓蒙活動を行う中、2021年、26歳上の前小金井市長・西岡真一郎さん(55)と結婚。“年の差婚”としてメディアでも話題になった友寄さんに、若年がん患者の闘病について、また、お子さんを持った現在に至るまで、話を聞いた。(全3回の2回目/ 3回目 に続く)
◆◆◆
闘病中に食べていたものを見ると、当時を思い出してしんどくなる
——闘病中に見聞きしていたものって、今でも触れるのがしんどくないですか。
友寄蓮さん(以降、友寄) それはありますね。やっぱり当時を思い出しちゃうんで。入院中に励まされていた曲も、今は逆に聴けなくなっちゃって。
——入院中、口にした食べ物も嫌になったり?
友寄 抗がん剤を使うと白血球の数値が減少して抵抗力が落ちてしまうので、ちょっとした菌やウイルスに感染しやすくなるんですね。だから、乳酸菌とか、納豆菌とか、菌のつくものはあらゆるものがダメで。
生野菜もNGだったので、サラダも全部湯通ししてあって、ビチャビチャなんです。あとは、滅菌された缶詰の果物とか、湯豆腐もよく出ましたね。
——今は好んで湯豆腐は食べないですか。
友寄 湯豆腐も果物の缶詰も、ちょっと無理ですね。その当時手にしていたメーカーのお茶も、見るだけで「ウッ」となっちゃうんです。
湯豆腐や果物の缶詰に何の罪もないので申し訳ないんですけど。
闘病中に登校したら茶髪のウィッグを注意された
——高校2年生の11月から1年4ヶ月にわたって入院生活を送られたということですが、その間、登校できない状況だったのでしょうか。
友寄 体調が安定したとき、病院から「学校に行ってもいいよ」と許可が出て登校したんですけど、思った以上に周りの視線がしんどくて。
——好奇の目で見られる?
友寄 そうですね。病院の中はみんな病人だから互いに理解があるんですけど、学校はそうじゃないので。
あと、当時はウィッグのバリエーションもそんなになかったので、とりあえずネットで手に入ったウィッグが茶髪だったんです。仕方なくそれをかぶって登校したら、友だちから「茶髪いいな」って言われたり、先生からは、「茶髪は校則違反だから黒髪のウィッグにしておいで」と指導されて。
——かぶりたくてウィッグをかぶってるわけじゃないのに。
友寄 こっちからしたら、黒髪だろうが何だろうがウィッグより地毛が良かったし、好きでかぶってるわけじゃないのにこんなふうに言われてしまうんだって、ショックでした。
それと、私の通ってた学校がかなりヤンチャな学校だったんですね。
ヤンチャな下級生に胸元のカテーテルを引っ張られて…
——ヤンキーが多い?
友寄 ヤンキーだらけで(笑)。当時はかなり荒れてる学校だったんですけど、階段がうまく降りられなくて、手すりにつかまりながらゆっくり降りてたら下級生の子に突き飛ばされたり、胸元に入っているカテーテルを引っ張られたりして、本当に怖くって。
学校からは、留年して落ち着いた環境の中で進路を決めることを提案してもらっていましたが、復学したところで体力的にも精神的にも皆と一緒にやっていく自信がなかったので、卒業するかたちを取らせてもらいました。
——15歳から30代までの思春期・若年成人のがん患者のことを「AYA世代」と言いますが、友寄さんの闘病中はまだこの概念がなかった?
友寄 「AYA世代」という言葉もなかったと思います。私は16歳から17歳の時期に闘病をしていましたが、今から思えば、学業的にも生殖医療的にもサポートが受けにくかった時代でした。
「AYA世代」という言葉が出てきて、“妊孕性温存”を初めて知った
——ほとんど高校に通えなかったということですが、勉強に関するサポートは?
友寄 病院内には院内学級があったのですが、中学生までは義務教育なので授業の時間があるんですけど、高校生はなくて。なので、院内学級の先生に無理を言って一緒に教えてもらったり、学校からの課題は担当医や看護師さんたちが勤務終わりに何時間でもつき合ってくださって。でも、それはやっぱり歪ですよね。
——妊孕性温存(編注:生殖機能を温存するための卵子凍結といった生殖補助医療のこと)の話はありましたか。
友寄 抗がん剤治療中、ずっと生理は止まっていましたし、退院後も生理不順になっていたので、もしかしたら妊娠に影響があるのかなとぼんやり思っていた頃、「AYA世代」という言葉が出てきて、“妊孕性”についてはじめて知りました。
——当時、妊孕性温存の選択肢がなかったことについて思うところはありますか。
友寄 絶対に将来子どもが欲しいと思う人もいるでしょうから、選択肢があることはいいことだと思うし、改善されたことは素直に良かったと思います。
ただ、当時、目の前に生きるか死ぬかの決断が迫ってる中、妊孕性のことを提示されていたとしても、自分はそこまで頭は回らなかったかもしれません。母親は、抗がん剤治療のときに頭をよぎったらしいんですけど、とにかく私が生きていればそれでいい、という気持ちだったみたいで、言い出さなかったそうです。
「明日も無事に生きてられるかな」死と隣り合わせだった入院生活
——やはり、闘病中は死と隣り合わせにあるような気持ちがあった?
友寄 入院中は常にありましたね。将来を考えるとかじゃなく、明日も無事に生きてられるかな、という感じで。
闘病中、毎日、夢を見てたんですけど、夢の中でも病気なんです。寝てても起きてても苦しくて、常に病気がまとわりついていました。
——気晴らしにしていたことはありますか。
友寄 まだSNSもミクシィくらいだったし、携帯やテレビは画面酔いしちゃうことが多かったから、やっぱり本だなとなったんですけど、でも、無菌室だと本も消毒が必要なんですよ。
——それはかなり大変ですよね。
友寄 アルコールで1ページずつ消毒しなくちゃいけないので、必死になってアルコールシートで拭いて持ち込んでいました。
退院後、半年ほど引きこもりになってしまった理由
——退院とほぼ同時に高校を卒業されたということですが、その後、どんな風に生活をスタートさせたのでしょうか。
友寄 自分で決めた卒業でしたが、いざ退院して卒業もしたら、浦島太郎状態になっていて。10代の1年半を病院で過ごした差は想像以上に大きくて、いきなり社会に放り出されても、何をしていいのか本当にわからなかったんです。周りの友だちは大学に行ったり就職したりとそれぞれの道に進んでいたので、誰にも相談できなくなっていました。
とりあえずバイトの面接に行ったものの、10件以上受けて、どこのお店も「何かあった時に責任を持てない」と言われてしまって、雇ってもらえなくて。
——病気のことを話すと雇ってもらえなかったんですね。
友寄 それでも、唯一受かったイタリアンレストランがあったんですけど、コーヒーカップひとつ持てませんでした。
まさかそこまで体力がなくなっているとは自分でも思ってなくて、私って何もできないんだなと、本当に独りぼっちになった気がして、半年ぐらいは引きこもっていました。
白血病になった経験を発信して、炎上してしまったワケ
——そんな中、今では芸能のお仕事や献血の啓発活動もされています。
友寄 もともと俳優養成所に入っていたこともあって、この現状を発信して自分で仕事を作り出すしかないと、切羽詰まって芸能活動を再開した感じでした。
——若くして白血病になったことで、メディアから「この経験から学んだことは?」的なことを聞かれることも多いと思います。複雑な気持ちになりませんか。
友寄 辛いことの方がよっぽど多いわけですけど、“美談”としてまとめる締めの言葉を求められるんですよね。現実はそんなに美しいものじゃないよ、とは思いますね。
「おかげで今は元気になりました」みたいなことを発信したことで、炎上したこともあります。
——どうして炎上したのでしょうか。
友寄 「病気が簡単に治るものだと思われるだろ」とか「今も苦しんでる人がいるのに、幸せなヤツが何を言うんだ」みたいなことを一緒に闘病していた人から言われて。
その後、競泳選手の池江璃花子さんが白血病を公表されたことで取材を受けたときも、「お前は骨髄移植してないだろ」みたいな、病気でマウントを取るようなバッシングを受けました。
寛解後に活躍している人の存在をしんどく感じる人もいるのかと思うと、気持ちは分かるので申し訳ないというか、心苦しくも思います。
出産してから、今まで以上に病気が怖くなった
——2021年には、26歳年上で当時小金井市長だった西岡真一郎さんと結婚され、お子さんも出産されました。
友寄 私の場合、講演活動や献血の啓発イベントにも参加させていただいているので、日常的に病気を考える機会が多かったこともあり、なかなか病気が“過去”にならなかったんです。闘病仲間だった子と数年ぶりに会ったとき、その子が、「もう昔のことだからあんまり覚えてないな」みたいに言ってたんですけど、私は本当に鮮明に覚えてて。
自分だけ取り残されているような気持ちになったこともありますが、出産して目の前の忙しさに追われているうちに、病気のことを思い出す機会が減りました。ようやく第二の人生というか、区切りがついた気がしています。
——母親になったことでまた変化があった?
友寄 今まで以上に病気が怖くなったし、絶対死にたくないって思います。逆に、当時の親の気持ちを今になって想像できて、ちゃんと恩返しできていないと思う部分もあります。
小児病棟で、「大切な家族じゃなく、我慢できる私が病気になって良かった」と話していた中学生の子が闘病中に亡くなってしまったんですが、そのときは私も抗がん剤治療中ということもあって、訃報をしばらく教えてもらえなかったんです。
でも、どんなに姿が変わっても友だちであることに変わりないし、その子に挨拶できないままお別れすることになってしまったことがずっと心残りで。それ以来、人間関係を後回しにしなくなりました。
撮影=釜谷洋史/文藝春秋
〈 55歳の年上男性と“デートゼロ”で電撃結婚…26歳差の「超年の差婚」をしたタレント・友寄蓮(29)が語る“夫の年齢が気にならなかった”ワケ 〉へ続く
(小泉 なつみ)
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引用元:https://news.biglobe.ne.jp/trend/0818/bso_240818_5006314478.html