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■幸せに生きるために必須な要素「遊び」
幸せの大三角の、もう一つの頂点にあるのが、〈遊び〉です。
遊びとは、辞書を引くと、「なぐさみ」とか「余裕、ゆとり」とあります。「酒色にふけること」なんていうのも出てきます。まさしく「仕事や勉強の合い間」という意味を載せている辞書もありました。
古語辞典には「神事としての芸能・狩り。行楽。遊宴」という意味も載せています。古代、狩猟は〈遊び〉であり、また神聖なこと、神事だったんですね。わたしも猟師なので、肌感覚でよく分かります。
白川静『字統』によれば、「遊」はもともと「斿(ユウ)」の字に由来していて、神霊の遊行に関して用いたそうです。転じて、「自在に行動し、移動するもの」を遊びとした。また、「うかれ・遊びは、すべて人間的なものを超える状態をいう語」だとも解説しています。
辞書というのは、いいものです。自分のたんなる直感が、学問的な正当性を持っていることもある。そのことを教えてくれる。
この節でいいたいことのすべてです。大事なので、再掲します。
〈遊び〉とは、「人間的なものを超える状態」である。
■勉強とも仕事とも距離を置いたものでなくてはならない
〈遊び〉は、〈仕事〉や〈勉強〉の合い間にするものです。言い換えれば、〈仕事〉や〈勉強〉だけしていては不完全です。合い間に〈遊び〉が挟まって、やっと三角形は完成します。
〈勉強〉は、直接的に〈仕事〉に役立ちます。しかし〈遊び〉は、なぐさみであり、余裕、ゆとりです。
つまり決定的に大事なのは、〈遊び〉は、直接的に仕事に役立たない。役立ってはいけないということなんです。
むしろ周りに「なんでそんなことやってんの?」と不思議がられる、場合によっては心配されることでなければいけない。酒色にふける、ということも意味するんですから、常識的にはあまりよろしくないもの、芳しくないものであってもいい。それを〈遊び〉と呼ぶんです。
■「遊び」がだんだん「勉強」になる
たとえば音楽は、わたしにとって、いまは〈仕事〉になっています。原稿を書いて、おカネをもらってますからね。
でも、ものを書き始めた当初、音楽はわたしにとって〈遊び〉でした。音楽についてわたしになにか書いてくれなんていう人は、一人もいなかったから。わたし自身、二十代のころ、自分が音楽評論家になれるなんて想像もしていなかった。なにしろ、専門分野のない「なんでも屋」、基本的には事件記者でしたからね。
ただ、バンドをしていた学生時代の延長で、音楽で遊んではいたんです。ふつうの人よりも、ずっと多く音楽を聴いていた。LPやCDを集めていた。カセットテープにコピーしていた。
そのうち、強迫観念的にライブを観るようにもなりました。ほとんど病的。毎晩、ライブに行く。どんなに忙しくても、行く。
そうすると、いままでのような音楽の聴き方じゃだめだと分かるんです。たとえばロックでも、好きなバンドだけを聴いていた。自分のすでに知っているものを聴いていたんですね。
音楽でも、古典を聴かなければウイングが広がっていかない。歴史順に、地域別に、時代背景や土地の特性、風土を理解しながら聴く。古いものから聴く。
ここでリストが登場するわけです。
ロックでもソウルでもジャズでも、必聴盤リストはいくらもあります。それを、片端から潰していく。好きでも嫌いでも、分かっても分からなくても、蛍光ペン片手に聴きまくる。聴いたらリストに蛍光ペンで印をつけるんです。
これは、もう、〈勉強〉ですよね。〈遊び〉が、だんだん〈勉強〉に接近し始める。
■最終的には「仕事」になる
勉強すればするほど、もっと深く知りたくなる。古い音楽を知ると、新しい音楽が、より好きになる。かび臭いと思っていた昔のR&Bや黎明期ロックンロール、オールディーズを聴いて、いまの、激しいビートのロック、派手な音響効果を使った現代的なダンスミュージックのよさが、より深く分かる。
こんなことをしていると、いずれ〈仕事〉になるのは時間の問題です。必然と言っていい。世界は、そのようにできている。熱量のある人は見逃されません。
大三角とは、こういう働きをするんです。〈遊び〉が〈勉強〉になって、〈勉強〉が〈仕事〉になる。
■遊んでいないやつはつまらない
つまり、〈遊び〉が〈仕事〉になる。
これはもう革命的にすごい事態なんです。
さて、音楽が〈仕事〉になってしまうと、〈遊び〉のポーションが少なくなる。だから、新しい〈遊び〉を始めるんです。
わたしの場合、それが映画だったり、文学だったり、落語、浪曲、講談のような話芸だったりします。絵画や写真、立体アートもそうでした。一時期、集中的に写真展ばかり見にいく。写真家と付き合うようになる。そんなのも〈遊び〉です。なぐさみであり、余裕、ゆとりですね。
〈勉強〉をしていないライターは、枯れます。〈仕事〉ばかり、つまりアウトプットばかりしてインプットしない人間は、それがどんな職種であれ、枯れるだけです。出せば、なくなる。簡単な物理法則です。
一方で、遊んでないやつは、つまんない人間になります。つまんないライター、おもんない職業人になります。
わたしの生家はとても貧しかったんです。父親はいちおうタクシー運転手だったけれど、本職はもはやギャンブラー。競馬、競輪に丁半ばくちと、なんでもやっていた。かなりブラックなところにも出入りしていたようです。莫大な借金を背負っていた。
だから母親は料理屋とかで働きづめ。男ばかりの三人兄弟だったんですが、小学生のころから両親共働きで、夜に大人が家にいない。たいへんよろしくない家庭環境だった。
■不良の話はどこか面白い
わたしは三人兄弟の真ん中で、兄も弟も、たいへん荒れていました。不良でした。喧嘩も強かったみたいで、親の知らないところで、警察のごやっかいになっていました。わたしは小さいころから本を読んでいたので、危ういところでそっちの世界に行かないですんだ(すんだのかなぁ?)。
本を読んでいたから、学校の成績はそこそこよかった。だから、わたしだけには部屋があてがわれていました。母屋の二階にある古い貸間の一室を勉強部屋にしていた。トイレは和式の共同だし、風呂なんてありません。いまはどこにもないような、木造の貧乏アパート。
しかし、そこには親がいないから、悪い仲間が集まってくる。とくに一歳違いの兄の代には不良がそろっていて、近隣の中学校でも有名な悪(わる)たちだったんです。
わたしが中学に入ると、その不良たちが、中間試験や期末試験の前に、わたしの部屋にやってくる。「みんなで試験勉強する」とか言って。勉強なんかするわけないです。いろんなものを、飲んだり、吸ったり、キメたりしている。
わたしからすればみんな先輩なんで、文句も言えないわけです。仕方ないからみんなと一緒に、キメはしなかったけど、話は聞いていた。
で、その、不良たちの話がおもしろいんですよ。
「シモキタにむちゃくちゃやばいやつがいて……」
「五反田で不良グループが結成されて……」
たいていは子供らしい喧嘩自慢、ワル自慢で、誇張も大きにあったんでしょう。でも、それがいまで言うところの、ギャングスタ・ラップみたいなんですよね。べつに真実のストリートニュースを知りたいわけじゃない。ナラティブ(叙述、話術)を楽しんでいる。
そこで気の利いたやばい話をしたり、的確な合いの手を入れたりできないやつは、不良仲間ではじかれていく。
不良の話って、おもしろいんです。それは、いろいろ悪いことをしているから。遊んでいるからです。
■新聞やテレビは「学級委員」
それに比べて――比べちゃ悪いけど――話のつまんないのはだれかというと、学級委員です。優等生。勉強ができるのはいいんだけど、なんかこう、きまじめで、L7(四角四面)で、決まりごととかルールとかにうるさくて。きれいごとばかり。
これって、いまで言ったらだれでしょう?
マスメディアですよね。新聞やテレビ。全国紙の社説や、ワイドショーのコメンテーター。
インターネットやSNSも、そうです。建前ばかり言っている。自分の狭隘(きょうあい)な正義を振り回している。しかも、威勢のいい投稿に限って匿名なんだから笑っちゃう。
わたしの勤めていた全国紙は、優等生タイプが多かったです。いい大学を出てるし、勉強もできて、多くの人が、わたしなんかよりよほど外国語もできる。
でも、「あんた、学級委員なの?」みたいな人、実名を挙げるとたいへんなことになるので書きませんが、いっぱいいますよ。そういう人たちが、社説だのコラムだのを書いている。
なにごとにもかっちりしている。間違えないこと、炎上しない慎重さには長けています。
でも、喧嘩は弱いんです。じっさいにしたことないから。優等生だから。ちょっとネトウヨに絡まれたり、SNSで炎上しちゃうと、慌てる。へこむ。ほっとけばいいじゃねえかと思うんだけど、なぜか過剰に反応してしまう。シャバ僧っていうか。
■正しいことを言うときはギャグにまぶせ
学級委員の書く文章って、主張は正しいけどおもしろくないんだと。正しいことを言うなよって話です。不良仲間で正しいことを声高に言おうものなら、それこそ火の海です。
正しいことに、人は圧迫されるものだ。ぐうの音も出なくなる。だから、せっかくの正しいことが、通じなくなるんです。ほんとうに読んでほしい人が、読まない。あんたの言葉は、人の心に届かないってことです。
正しいことを言うときは、ギャグにまぶしてくれ。
■正しいことを言うことは相手を傷つけるということ
言いたいことがあったら言ってもいい。しかし、それはチョコレートでくるめ。
映画監督のビリー・ワイルダーが語っていました。
映画は、あくまでエンターテインメント、娯楽なんだ。なによりも、観客を楽しませろ。映画の話術で、魔法にかけろ。映画館に客を呼んでこい。そうでないと、次の作品なんかないぞ。映画作りは、カネがかかるんだ。
ワイルダーはノンポリの監督などではありません。ときの権力にむかって辛辣な皮肉を飛ばしています。わたしはワイルダー監督では『フロント・ページ』がいちばん好きなんですが、あれは、共産主義者への不当な弾圧に抗議した映画です。しかし、そんなこと表に出さない。警察権力やマスメディア批判も、後景にある。でも、とにかく笑わせるんです。そのころ知識層に絶大な影響力を持っていたフロイト心理学を、散々おちょくっている。
大上段に振りかぶって、政治的演説なんかしない。エンターテインする。楽しませる。言いたいことがあったら、チョコにくるめ。
二人が睦まじくいるためには 愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは 長持ちしないことだと気付いているほうがいい
(略)
正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
(吉野弘「祝婚歌」)■表現者にとって遊びは必須
これだと思うんです。あらゆる表現者にとってのコーナーストーンです。新聞記者、テレビ記者も、銘肝牢記(めいかんろうき)しろ。
詩を読め。映画を見ろ。音楽を聴け。落語や浪曲や歌舞伎を見にいけ。
つまり、遊べって話なんです。
遊んでないやつは、正しいかもしれないけれど、つまらないから。おもんないやつになってしまうから。
表現者にとって、〈遊び〉は必須です。表現者にとって必須ということは、現代に生きるほとんどすべての人間にとっても必須。〈仕事〉は、畢竟(ひっきょう)、表現なんですから。
そして、〈遊び〉と〈勉強〉は違う。
〈勉強〉とは、〈仕事〉に直接的に役立つものだ。しかし〈遊び〉は、〈仕事〉と関係あってはいけないんです。〈仕事〉と〈遊び〉は、遠いところにあるものでなければ、だめなんです。
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近藤 康太郎(こんどう・こうたろう)
朝日新聞編集委員
作家、評論家、百姓、猟師、私塾塾長。1963年、東京・渋谷生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、1987年、朝日新聞社入社。川崎支局、学芸部、AERA編集部、ニューヨーク支局を経て九州へ。著書に、『百冊で耕す 〈自由に、なる〉ための読書術』『三行で撃つ 〈善く、生きるための文章塾〉』(CCCメディアハウス)、『アロハで田植え、はじめました』『アロハで猟師、はじめました』(共に河出書房新社)、『「あらすじ」だけで人生の意味が全部わかる世界の古典13』『朝日新聞記者が書けなかったアメリカの大汚点』『朝日新聞記者が書いたアメリカ人「アホ・マヌケ」論』『アメリカが知らないアメリカ 世界帝国を動かす深奥部の力』(以上、講談社)、『リアルロック 日本語ROCK小事典』(三一書房)、『成長のない社会で、わたしたちはいかに生きていくべきなのか』(水野和夫氏との共著、徳間書店)ほかがある。
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(朝日新聞編集委員 近藤 康太郎)
]...以下引用元参照
引用元:https://news.nifty.com//article/magazine/12179-3158258/