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昨年10月〜12月に日本テレビ(以下、日テレ)が放送したドラマ「セクシー田中さん」の原作者・芦原妃名子氏が亡くなった問題で、日テレと原作マンガの版元だった小学館がそれぞれ調査報告書を公表した。
日テレの報告書は5月31日に公表された。当初はゴールデンウィーク明けくらいに公表されるのではないかと言われていたが、結果的にずいぶん時間がかかった印象だ。
私は事前にマスコミ各社から公表後のコメントやインタビュー取材を打診されていた。それらの記事をネットや新聞でお読みになった方もいらっしゃると思うが、紙幅の都合でコメントの一部しか紹介されていない。
そして6月3日、こんどは小学館側が調査報告書を公表した。本稿では、これら両社の報告書を比較考察したうえで、私なりの分析を論考として述べたい。「なぜ不幸な事件が起きてしまったのか」というプレジデントオンラインに寄稿した最初の問いをさらに掘り下げる。
今回の報告書を検証する視点は、大きく分けて以下の3点である。
①初見の感想、全体の印象はどうだったか/「現場の作り手」から観て共感できるものだったのか
②調査の姿勢はどうか/「踏み込み」の度合いや方法は適切か
③報告書の「今後に向けた提言」は再発防止に資するものなのか/私が過去にプレジデントオンラインで指摘した「ドラマ多産化現象」「コミュニケーションの断絶」といった原因に切り込めているか、もしそれが不十分であるとすれば、なぜそうなってしまったのか
■日テレの報告書で目立った「自己防衛」
この問題の経緯を簡単に整理したい。
報告書によると、日テレは昨年2月末〜3月、原作マンガを連載していた小学館にドラマ化を提案した。小学館は芦原氏の要望として「原作マンガに忠実に表現すること」などを求めたが、日テレ側は「強い要求」と認識せず、食い違いが生じたという。その後もその食い違いは是正されることなく、改変やドラマ終盤の展開などをめぐり、芦原氏の不信感が増大していった。
そして1〜8話を担当した脚本家の相沢友子氏が降板し、9話、最終話を芦原氏が急遽担当することになった。放送終了後の昨年12月末、脚本家がSNSで不満を投稿。芦原氏も今年1月にこの経緯を投稿していた。SNSでは脚本家や日テレへの批判が高まり、芦原氏は「ごめんなさい」と投稿した翌日、栃木県内で亡くなった。
ここから本題に入ろう。視点①「初見の感想、全体の印象はどうだったか/『現場の作り手』から観て共感できるものだったのか」についてだが、時間をかけて丁寧に調査をおこないそつなくまとめているが、本当に「制作現場」のことを考えた内容になっているのかという点においては疑問が残る。以下に理由を述べる。
日テレの報告書は様々な人々にアンケートやヒアリングを実施している点において、評価に値する。アンケートは71人、ヒアリングは39人とのことだが、そのうち外部の意見がどれくらい反映されたかが気になった。
なお小学館の社内調査は「関係者へのヒアリングをおこなった」としているが、その規模や人数は触れられていない。
最初に日テレの報告書を読んだとき、「これは完全に小学館と原作者である芦原氏を糾弾するような内容になっているな」と感じた。「社内調査チーム」が発表しているものであるという前提で読むため、どうしても「自己防衛」気味の表現が目立ったからだ。
例えばそれは「総括」の「本件を通じて浮かび上がった小学館と日テレの根本的な立場や考え方の違いについても指摘しておきたい」という一文にも表れており、私はここに違和感を抱いた。
■組織の上層部が「現場」を断罪している
テレビ局と出版社は違う業界だ。立場や目的が違うのも当たり前で、考え方も違うだろう。だが、だからこそコミュニケーションが重要になるのではないか。そのコミュニケーションの努力が足りなかったことがそもそもの原因ではないのか。「立場や考え方の違い」を理由にしてはいけない。
調査に臨んだ日テレの姿勢についても疑問を抱いた。冒頭の「経緯と目的」で「本件原作者の死亡原因の究明については目的としていない」と記しているが、「芦原氏がなぜ亡くなるまでに至ったのか」という原因究明を避けて再発防止は図れないのではないかと感じたからだ。
さらに苦言を呈すれば、「現場の作り手」であった私から見て、現場が「断罪」されているように感じた。担当プロデューサーが若く経験が浅いということも原因であったかのように述べられているが、「若く」「経験が浅い」ことはモノづくりの現場においては言い訳にもならない。
だとすれば、「若くて経験が浅いから、能力が及ばなかった」と非難しているようにしか聞こえない。こういった紋切り型や大上段からの表現の端々から、この報告書が「組織の上層部からの目線」で書かれているということが浮き彫りになる。
■原作者は「キャラブレ」を最も恐れていた
次に、視点②「調査の姿勢はどうか/『踏み込み』の度合いや方法は適切か」を考えたい。
日テレの報告書はあくまでも内部における事情説明と経過報告が主になっており、肝心のテレビ局側と原作者側の「コミュニケーション」がどうなっていたのかが見えてこない。
つまり、制作者サイドが再三、原作者側と交渉を重ねた様子は詳細に述べられているが、一番知りたい「その交渉内容がどれだけ原作者の芦原氏に伝わっていたのか」ということが不明である。
その点、小学館の報告書は細かく担当者と芦原氏のやり取りが記されていて、より具体性がある。日テレとの交渉のなかで担当者が大きな不安と不信感を抱えながら作業を進めていたことが手に取るようにわかる。
小学館の報告書のなかに、見逃してはならない重要な一文がある。1〜3話のプロットやドラマ版構成案をめぐるやり取りの中で、小学館の社員が日テレのプロデューサーにあてたメールのなかの部分である。
「『セクシー田中さん』はキャラクター漫画だと思っています」
この意味を読み解くことができていれば、芦原氏がこだわる点も見抜けたはずだ。
原作者が一番恐れていたのは「キャラブレ」だった。
■人員を増やすだけでは根本解決にならない
小学館の報告書は、「本件原作者の死亡原因の究明については目的としてない」と言い切る日テレのものとは違い、芦原氏が担当者を通じて日テレ側にどんな点のどんな要望を出したのかが詳細に綴られており、「原作者が死亡した原因」を究明しようとする意志が見られる。
そういった意味でも、日テレの報告書は多くのアンケートやヒアリングによって一般論としての「ドラマ制作における原作者との向き合い方」を検証したものになっており、調査の姿勢としては良いが、具体性に欠け「踏み込み」の足りない検証になっていると指摘せざるを得ない。
次に、視点③「報告書の『今後に向けた提言』は再発防止に資するものなのか」を考えたい。日テレの報告書は、そもそも原作者が亡くなった今回のような事件の再発防止を目的としていないため、少々的外れに終わった感がある。
報告書には、ドラマの企画決定を原則として放送開始の1年半前、遅くとも1年前を目標とすることや制作人員を増やすことなどの具体的な案が示されている。これは評価できるが、それは制作現場における構造改革であり、今回の問題以前に考えるべきことではないだろうか。
■いかにも局の上層部が考えそうな再発防止策
また、こうした対応ができるのは日テレのような大きな局に限られる。地方局や深夜帯などの予算の乏しい番組では、このような方法をスタンダードにするのはなかなか難しいだろう。
報告書では、なるべく早いタイミングで、企画書の他に、映像化するに際しての全体構成案・演出などが書かれた「相談書」を作成することが示されている。これは、ドラマ化するにあたって、制作者側がどんな点を改変したいと考えているかを事前に、具体的に、原作者に提示し、理解を求めるものだ。
これこそまさしく局の上層部や経営陣が考えそうなことだ。安全策という意味ではありだろうが、ともすればこの相談書の存在は現場の首を絞めかねない。
制作現場は脚本化の段階で演出のアイデアや工夫を重ねてゆく。撮影に入っても監督はカット割りの段階でよりよい演出プランを模索しようとする。俳優が「このほうが伝わりやすい」とセリフ変更などの提案をすることもある。そういったギリギリまでの切磋琢磨や推敲が作品を良くしてゆく。
相談書はそういう努力を封印してしまう可能性がある。「原作者と事前にこの内容で合意しているから、これ以上は変えられない」となれば、現場の「枷(かせ)」になると危惧する。改変や演出面の相談は、状況に応じて臨機応変におこなってゆくべきではないだろうか。
■原作者を苦しめた2つの原因
いよいよここからは、なぜ今回のような「不幸な事件」が起きてしまったのかという核心に迫りたい。
日テレの報告書では避けている「原作者の死亡原因」については、小学館の報告書では「原作者によるSNS投稿経緯と対応」という項目に詳細が記されている。それを読めば、原因は明白だ。
直接的には、芦原氏のSNSへの投稿が反響を呼んで芦原氏の苦労に同情が集まった反面、脚本家への非難が集中したことを芦原氏が悔いたことが引き金になっていると思われるが、当初から「芦原氏は多大な時間と労力を割くことを余儀なくされ、特に要請した修正が円滑になされないことは心労を増す原因になった」と小学館の報告書は指摘している。
芦原氏は、小学館の社員とのLINE(10月21日付)で「●●さん(本件脚本家。原文は実名)の度重なるアレンジで、もう何時間も何時間も修正に費やしてきて、限界はとっくの昔に超えていました」(括弧内は報告書記載のママ)と投稿するほど疲弊していたという。そんな状態では、物事を正確に判断することも難しくなっていたと想像される。分別ある行動もできなくなっていた恐れもあるだろう。
こうした状況を踏まえると、芦原氏を疲弊させた原因は、①ドラマ制作者と原作者が信頼関係を築かないままドラマの企画を走らせてしまったこと、②それを補うだけのコミュニケーションが取れなかったこと――この2つに尽きると私は考えている。
■「ミスコミュニケーション」という言い訳
日テレの報告書は再三にわたり「ミスコミュニケーション」という言葉を使用している。
ミスコミュニケーションは「伝えたけれど正しく伝わっていない」という意味だ。この言葉を使う真意は「こちら(日テレ)側はちゃんと伝えていた」ということになろう。
だが、本件の場合は「ディスコミュニケーション」と表現するのが正しいのではないか。両社の報告書にあるように、原作者側の要望を、テレビ局側は脚本家に「そもそも伝えていなかった」のだから。この「ディスコミュニケーション」に関しては、小学館側にも言えるだろう。
両社の報告書によれば、正式に映像化の合意に至ったのは3月としているが、芦原氏はブログで「最終的に私が10月のドラマ化に同意させて頂いたのは6月上旬でした」と述べている。これは「伝えたけれど正しく伝わっていない」のではなく、完全に「そもそも伝わっていない」証拠だ。
信頼関係を築くこと――。番組制作のキモはこれに尽きると改めて強調したい。それはプロデューサーと脚本家、プロデューサーと原作者の間だけではない。それぞれのスタッフや番組作りに関わるすべての人が「信頼」で結ばれていなければならない。
■日テレ側と原作者側の恐ろしい食い違いが明らかに
今回の両社の報告書の食い違いで、この信頼関係が充分に築けていなかったことが明白となった。
例えば、小学館の報告書では、「日テレ社員Y氏は、原作が大好きで、すごく面白いからドラマ化したいと述べ、当然、原作に忠実にするとのことであった」とあるが、日テレの報告書で同人物は「『当然、原作に忠実にする』という発言はしておりません」と回答している。
また、ドラマ後半の脚本をめぐるやり取りでも、小学館側は「テレビ社員X氏は、芦原氏に書いてもらうことはありがたいと賛同し、脚本家にもうまく話しておくと返事した」と述べているが、日テレ側は同人物が「『もし脚本が芦原先生の意図を十分汲まず、芦原先生の承諾を得られないときは、芦原先生に脚本も書いてもらうこともある』と言われた記憶はないと否定している」と主張している。
この恐ろしいまでの食い違いは、完全に信頼関係が構築できていないことの証拠ではないか。小学館の報告書によると、すでに昨年4月25日の段階で、ドラマ後半にオリジナルの脚本を書かざるを得ない場合があるという芦原氏の覚悟を確認していたため、日テレ側に「10月クールは難しい。1月クールに延ばしてはどうか」と度々提案していたという。
そういったことにも耳を貸す余裕がなかったのか、それともお互いの言っていることを信じられないほど疑心暗鬼になっていたのか、そう訝(いぶか)しまざるを得ない。
■小学館側は「作家を守るべき」という意識が非常に強かった
もうひとつ、両社の報告書を吟味していて気がついた点があった。それは出版社とテレビ局のSNSに対する認識の違いである。
日テレでは「日テレソーシャルメディアポリシー」を策定して社内周知をおこなっている。しかし、今回のような原作者と脚本家による投稿からくる炎上対策のケーススタディが充分におこなわれていたとは言えない。実際に、日テレは「口を出すべきではない」として原作者にも脚本家にも投稿に関する意見や要請をおこなっていない。
これに対して、小学館では普段から社内セミナーなどで炎上対策が講じられてきた。今回も脚本家の投稿が出た段階で、社内で対応を協議している。また今後の対策として「懇意にし、継続的に取引関係がある作家が小学館で連載・発行する作品に関連して炎上したときはどうすべきか、検討課題としたい」と述べている。
以上のことは、小学館側は「作家を守るべき」という意識が非常に強いことを物語っている。逆に、日テレ側は脚本家の投稿を知った後も削除を求めるのは踏み込みすぎだと判断するなど、炎上することを想像できないといったように対策が後手に回っている感があると指摘しておきたい。
■信頼関係を軽視したドラマ化の限界
以上、日テレ、小学館の両社の報告書を紐解き、比較考察しながら私なりの分析、検証をしてきたが、最後に同じような事件が2度と起きないための提言をしたい。
芦原氏が亡くなったことの原因は、当初から信頼関係を築けないままスタートした映像化に関して雑多なやり取りや修正願いを続発せざるを得なかった状況下で徐々に芦原氏が疲弊し、精神的に追い詰められていったことに間違いない。
そんな状態に、さらに脚本家とのSNS上でのお互いの感情のぶつけ合いが拍車をかけた。そして読者やファンを含む一般人による炎上が決め手となってしまったのだ。それらは偶発的な出来事の重なりのように見える。
しかし、この流れの中に解決策が隠されている。それは2つある。
ひとつ目は、制作側と原作者側の信頼関係が構築できていないうちは、映像化に踏み込んではいけないということだ。これをプロデューサーである現場責任者が徹底するべきだ。報告書では、契約書の早期締結や相談書の作成を提言しているが、そういった「かたち」ではない。
「信頼関係」という目に見えないものが実は大切なのだ。テレビ番組は人によって作られる。だからこそ精神的なつながりが要となる。そのための方法論が報告書にもあった「原作者と面と向かって話をする」ことであったりするのだ。
■原作者の思いは裏切られた
日テレの報告書では、「会いたくないと言われた」と記されたように、ドラマ制作者が原作者になかなか面会できなかった旨を何度も強調している。だが、ベリーダンスを一緒に観劇するなどの機会はあったとし、「この場で話すべきではない」と思ったと言い訳しているが、そんな悠長なことを言っている場合だったのか。
本当にちゃんと話したければ、どんな状況でも話そうとするはずだ。こころのどこかで避けていたのではと言われても、仕方がない。
なぜ制作者と原作者の信頼関係は構築されなかったのだろうか。私は企画が動き出した時点に生まれた齟齬に原因があるように思う。
最初に日テレが原作者に提示した企画書には「40歳を超えてわが道を往く経理部の地味なOL・田中さんとリスクヘッジを考えて生きる23歳可愛い系OL・朱里。真反対なふたりが化学反応を起こす、ほっこりラブコメディ」と書かれていた。
その内容に芦原氏は好意的な反応を示したという(小学館報告書)。
そののち、常に彼女の頭のなかには「ドラマはこの二人の主人公(・・・・・・)を描いてくれるに違いない」という思いがあったはずだ。
だが、その気持ちは裏切られた。ドラマの主人公は田中さんだったからだ。ここにはテレビ局のキャスティングの都合があると私は見ている。いまでこそ朱里を演じた生見愛瑠氏は主役を張る俳優だが、当時はそれほどまでではなかった。
そんななか、田中さんの方は木南晴夏氏がつかまった。当然、田中さんを主人公にした脚本が用意され、演出が施されることになる。そういった齟齬が芦原氏の不信感を募らせる原因になったとは言えないだろうか。
■プロデューサーにとって脚本家は「強い味方」のはずだが…
私は再度、マンガ原作とドラマを見比べてみた。そしてあることに気がついた。「実は芦原氏は、このマンガを朱里が主役のつもりで描いているのではないだろうか」ということだった。「セクシー田中さん」というタイトルも本当は「私の愛しいセクシー田中さん」というように、朱里目線の作品なのではないか。
その証拠に、脚本家が書いた8話までは田中さんのモノローグが多いが、芦原氏が脚本を書いた10話はすべて朱里のモノローグに変わっている。また、芦原氏は何度も朱里のキャラブレについて指摘し、修正を求めるなど、朱里に対しての思い入れが強いことがわかる。これは、主人公であるはずの朱里が「ないがしろにされている」と感じていたからではないだろうか。そういった作品の根底部分の話し合いを、もし会って直接できていれば、芦原氏の不信感は解消され信頼関係も築けたかもしれない。
ふたつ目は、局のプロデューサーにとっていかに脚本家とコミュニケーションを取ることが大事かということだ。きちんと意思疎通ができる脚本家とでないとタッグを組むべきではない。もちろん、すべての人、原作者側ともコミュニケーションは必要だが、特にプロデューサーにとっては脚本家とどう情報共有をするかがキモになる。
プロデューサーにとって脚本家は本来、「強い味方」のはずなのだ。しかし、今回のようにプロデューサーが原作者側から言われ聞いてきたことを脚本家に告げないことが積もり積もってくると、ある時点でコミュニケーションは断絶してしまう。
報告書を読む限り、あまりにもプロデューサーは脚本家の存在をないがしろにし過ぎたと思わざるを得ない。それは自分で自分の武器を投げ捨てたようなもので、実にもったいないことだ。
■制作現場の萎縮が心配だ
映像制作は自分自身との闘いでもある。大変なことも多いが、葛藤を重ね、自分を見つめ直しながら成長してゆくこともできる。そんな苦労の末に出来上がった作品は何ものにも代えられない宝物だ。だから、映像作りは楽しい。
私もその魔力に取りつかれて多くの番組を作った。なかでもドラマは、想像の世界をどう映像化できるのかというマジックのようなところがある。
見事に実現したときは嬉しくてたまらない。そんな制作現場で頑張っているクリエイターたちには、今回の「セクシー田中さん」問題をただ悔やむのではなく、ましてや萎縮するでもなく、逆にそれをバネにして次なる作品に挑んでほしいと願っている。
それが、亡くなった芦原氏への最高の手向けではないだろうか。
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田淵 俊彦(たぶち・としひこ)
元テレビ東京社員、桜美林大学芸術文化学群ビジュアル・アーツ専修教授
1964年兵庫県生まれ。慶應義塾大学法学部を卒業後、テレビ東京に入社。世界各地の秘境を訪ねるドキュメンタリーを手掛けて、訪れた国は100カ国以上。「連合赤軍」「高齢初犯」「ストーカー加害者」をテーマにした社会派ドキュメンタリーのほか、ドラマのプロデュースも手掛ける。2023年3月にテレビ東京を退社し、現在は桜美林大学芸術文化学群ビジュアル・アーツ専修教授。著書に『混沌時代の新・テレビ論』(ポプラ新書)、『弱者の勝利学 不利な条件を強みに変える“テレ東流”逆転発想の秘密』(方丈社)、『発達障害と少年犯罪』(新潮新書)、『ストーカー加害者 私から、逃げてください』(河出書房新社)、『秘境に学ぶ幸せのかたち』(講談社)など。日本文藝家協会正会員、日本映像学会正会員、芸術科学会正会員、日本フードサービス学会正会員。映像を通じてさまざまな情報発信をする、株式会社35プロデュースを設立した。
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(元テレビ東京社員、桜美林大学芸術文化学群ビジュアル・アーツ専修教授 田淵 俊彦)
]...以下引用元参照
引用元:https://news.nifty.com//article/magazine/12179-3103006/