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「だから、人の質問を最後までちゃんと聞いて!」娘の苦言に90歳の名物司会者・田原総一朗が返した意外な一言|ニフティニュース -芸能ニュース/炎上まとめ

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【連載 #私の失敗談 第11回】どんな人にも失敗はある。ジャーナリストの田原総一朗さんは「42歳の時、東京12チャンネル(現テレビ東京)を『事実上のクビ』になったことが、逆に大きなチャンスになった」という――。(聞き手・構成=ノンフィクション作家・樽谷哲也)■世の中の価値観が180度変わった経験

僕はね、戦争を知っている最後の世代なんですよ。

小学校5年生になると社会科の授業が本格的になってくる。忘れもしません。5年生の1学期には、学校の先生たちからは「この戦争は世界中の国々を植民地にしている悪しきアメリカ、イギリスを打ち破ってアジアを解放、独立させる正義の戦争である」と教わった。新聞もラジオも同じことを盛んに煽っていた。

そして、夏休み中だった8月15日にラジオで、天皇の玉音放送を聴くことになった。難しい言葉ばかりで雑音だらけで僕にはよく意味がわからなかった。しばらくすると、市役所の職員が「戦争に負けた」と大騒ぎし始めたんです。

夏休みが終わって2学期になるころ、米軍がどんどん日本に進駐してきました。学校の先生たちは「絶対にやってはいけない間違った戦争だった」と180度違うことを言うようになった。新聞、ラジオも「日本は間違っていた。アメリカ、イギリスこそ正しい」というように、伝えることが180度変わった。小学6年生、中学1、2、3年生と「軍隊は持ってはいけない」「戦争はいけない」「平和こそ大事である」と教えられつづけた。

ところが、高校に入ると、朝鮮戦争が起きて在日米軍が出撃していった。僕は「戦争反対」「平和が大事だ」と主張した。そうしたら、高校の先生に「おまえはいつから共産主義者になったんだ」と怒られた。新聞、ラジオは「国を守るために戦争をしなければならない」と、また180度変わった報道をするようになった。

■ジャーナリストを目指したが、就活で“全敗”

僕は世の中の価値観が180度変わるという経験を2回もしたんですよ。先生や偉い人のいうことも、新聞、ラジオ、マスコミも信用できない。だから、一次情報を持つ当事者に、自分が疑問に思うことを直接ぶつけて、とにかく聞いて回りたいと思って、ジャーナリストを志望したんです。

それで大学を卒業するときに、NHK、朝日新聞、現在のTBSやテレビ朝日、ニッポン放送、北海道新聞と手当たりしだいに受けて、ことごとく落ちた。どこにも引っかからなかったのだから、僕は自分に才能も能力もないということがよくわかってる。だから、人に会って、一次情報を確かめるということをつづけているんです。

インタビュー当日、個人事務所のオフィスと仕事場を兼ねる都内の自宅を訪ねると、ロングコートを羽織り、杖などを頼ることもなく、少し猫背気味ながら、しっかりとした足取りで歩いて戻ってきた田原氏とタイミングよく顔を合わせることになった。首相官邸で取材をして帰宅したところという。多少の毀誉褒貶はあれども、現役のベテランジャーナリストとして影響力のある人物であると衆目は一致するところであろう。

しきりに、「僕は才能がないし、能力もない。頭も悪い」と繰り返す田原氏に、「世間の多くの人は才気あふれるインテリと思っているのでは……」と問いかけるや、よく知られる田原節の大きな声が放たれてきた。

まったくそんなことないっ!

■「当事者に会って一次情報を確かめたい」

僕はいったん早稲田大学の二部(夜学)に入ってから一部に再入学したこともあって、大学に7年もいて、本来はネクラだし、お話ししたように、めぼしいマスコミ10社の入社試験に全部落ちた。それで岩波映画という小さな制作プロダクションに入った。カメラ助手から始まるんだけど、僕は機械が全然わからない。ミスばかり起こして、半月で現場から外されて落ちこぼれちゃった。挫折の連続ですよ。3年後に、東京12チャンネル(現・テレビ東京)に開局準備段階から入った。

1970年代に原発反対運動が広がっていったんですよ。僕はね、とにかく当事者に会って一次情報を確かめたい。だから、推進する人、反対する人、両方の中心的な人物に次々に会って確かめる。疑問に思ったことを質問する。違うと思えば反論する。世の中の価値観が180度変わるという経験を2回もしているから、賛成、反対のどちらかに極端に合わせるのは危険だと思っている。日本の安全保障を強化すべきか否か、あるいは地球環境を悪くさせないためにCO2を削減しなければならないなら、再生可能エネルギーのうち、太陽光、風力発電、地熱利用、何を活用すべきなのかと、賛否両論それぞれの人に聞いているうちに、だんだんリアリティーを持って考えられるようになってくるんです。

経済成長についてもそうでしょう。あんまり経済成長をさせようとすると地球環境を壊すことになる。貧富の差がより激しくなる。中国やロシアとの外交も同じだと思います。世の中には完全な正解があると考えるのはとっても危険だと僕は思いますね。

■東京12チャンネルを「事実上のクビ」になった

失敗といえばね、僕が42歳のときのことです。原発反対運動が大きくなる一方で、推進運動の勢力が出てきた。で、調べていったら、推進派のバックに最大手広告代理店、電通の存在があるとわかってきた。それで、僕は当時、東京12チャンネルのディレクターでありながら、筑摩書房から出ていた『展望』という月刊誌に、2回、電通批判を書いた。

そうしたら電通が怒って、こんなやつのいるテレビ局には広告スポンサーを回さないぞと脅しをかけてきた。当時の東京12チャンネルなんて小さい会社ですから、電通から広告スポンサーをもらえなくなったら潰れてしまいますよ。局の上司である役員が「電通の批判はやめろ」と僕に言ってきた。「それが嫌なら局を辞めろ」というんだね。

僕は電通批判と会社とどちらもやめなかった。そうしたら、2カ月後に、管理監督責任を問われて僕の上司である常務、局長、部長が処分された。仕方なく僕は局を辞めざるを得なくなった。事実上のクビです。

東京12チャンネルを退職した田原氏は、1977年、フリージャーナリストになった。「失敗」がきっかけであったとはいえ、今日の田原総一朗に至る道へとなっていく。

局をクビになってフリーになったのだし、電通について好きなように書きたいと、いろんな出版社に企画を持ち込んだ。『週刊朝日』が書いてほしいとOKをくれて連載をすることになった。第1回の原稿を書いて送ってから、3日後ぐらいのことだったと思う。編集部が「書き直してください」と言ってきた。詳しくは訊ねなかったけど、たぶん掲載前の原稿を電通に見せたんでしょう。

■「クビになってよかったと思う」

それで僕は、取材を通じてとても親しくなっていた電通の広報責任者でもあった専務の木暮さん(剛平氏・のちの社長)に会いに行ったんです。「僕はなにも電通を倒そうと思っているわけではない。日本は民主主義の国で、言論の自由がある。電通は言論の自由に反対なのですか」と。

1時間ばかり話したら、木暮さんが「よくわかった」というんです。「われわれ電通もいままでどおりの仕事の仕方でいいのかどうか試行錯誤の最中なんです。田原さん、どうぞ自由に書いてください」と。あのとき、木暮さんが怒っていたら、僕の連載は中止になったかもしれません。

連載は大評判となり、単行本化されるや、電通のタブーに初めて切り込んだノンフィクションとしてベストセラーになった。1984年に『電通』として朝日文庫化となって読み継がれ、作家・大下英治氏のデビュー作『小説電通』と並んで激賞された。

フリーを名乗ったところで、ダメになるだけだと思っていました。おそらく、3カ月、半年と仕事がなかったら食い詰めて、人生に絶望したと思う。

でも、そんな不安を覚える間もなく、すぐに『週刊文春』や講談社など、大手の出版社、新聞社から次々と「うちでも書いてくれ」というようになってきた。東京12チャンネルを辞めざるを得なくなったことが、逆にでっかいチャンスになったんですね。結果的にはクビになってよかったと思う。フリーになって自由に書けるようになりましたからね。どんどん仕事が来るようになった。本当にありがたかった。収入もどんどん増えました。

■一所懸命に書いたことを認めてくれた

以後も、原子力、セックス、官僚社会と、それまでは半ばタブー視されていたジャンルに切り込みつつ、政財界の実力者たちを取材し、精力的に発表していった。やはり、「才能も能力もない」というのは謙遜に過ぎるのではないかと、なお訊ねたが……。

だって、才能があるなら、NHK,朝日新聞、TBS……どこかに受かるでしょう。全部落ちたんだもん。

才能は本当にない。強いていうなら、一所懸命に書いてきたことを、建前ではなく、本音の部分で認めてくれたんじゃないかな。そうであったのなら、ありがたいことです。いまの中国やロシアのような国に生まれていたら、僕は絶対に食えなかった。本当にありがたい。

執筆活動と並行して、田原氏が長年、取り組んできたのは、1987年に放送が始まった『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日系)などの討論番組の制作や企画立案、そして司会進行役である。初期の『朝生』は、歯に衣着せぬ映画監督の大島渚、直木賞作家でタレントなどとしても幅広く活躍した野坂昭如、保守の論客として知られた東大教授の西部邁ら各氏が毎回、パネリストとして登壇し、たばこをスパスパとくゆらせながら、「ばか野郎!」「ふざけるな!」と怒号が飛び交う大カオスの番組であった。

同席する30代の編集者が「田原さんはいつもテレビで怒っているおじさん、というイメージを持っていました」と話した。

でも、『朝生』が始まったころは、大島さん、野坂さん、西部さんといった非常にうるさ型の出演者ばかりで、僕が反論したら、逆にガーンと反論されて、こっちが潰された。それが面白かった。勢い余って僕が怒ろうものなら、ドカーンと怒り返してくるような人たちばかりでしたよ。

■「人の質問を最後までちゃんと聞いてください!」

ところが、大島さん、野坂さんたちが出演しなくなって亡くなっていくと、僕の反論に、2倍、3倍の反論をぶちかましてくるような人がいなくなっちゃってね。だから僕はいつも怒っているおじさんというイメージを持たれるようになったのかもしれない。大島渚さんのような人がいてほしいなあ。

最近、常連パネリストでもある国際政治学者の三浦瑠麗氏が『朝生』での田原氏の長広舌ぶりを「独演会」と評したり、SNS上で「田原は他の出演者の意見に耳を貸さない」などといった批判も散見されたりするようになって久しい。2月末の『朝生』でも、共産党参院議員の山添拓氏の意見をさえぎった場面はSNSで拡散され、批判を浴びた。そのことにふれながら、訊ねた。

――田原さんは、「共産党は大企業を敵視しているから」と決めつけたりして、パネリストの意見を途中でさえぎったりして……。

僕は共産党嫌いなんかじゃないですよ。むしろ期待してます。ものすごく期待して……。

田原氏がそこまで早口でまくしたてかけたとき、傍らに控える女性が「だから、人の質問を最後までちゃんと聞いてください!」とぴしゃりと苦言を呈した。「取材中に横から口をはさんで、すみません」と、ちょこんと頭を下げたその女性こそ、マネジャーとして、事務所のスタッフとして、田原氏を長年、支えている三女の和田眞理さんであった。

以下、和田眞理さんご本人の承諾を得たうえで、なるべく忠実に文中に再現したい。

■娘からの苦言に、どんどん声が小さくなる…

【和田眞理さん(以下、眞理さん)】だから、いまの質問は、番組でパネリストの人が発言している途中でさえぎったまま、司会者が長々と口をはさんでいるから批判されていることについて聞いているんですよ。

【田原】いや、意見を聞いているから反論もする……。

【眞理さん】だから、質問を最後まで聞いてくださいっていってるでしょう。

【田原】うん。で、もっといえば、自民党とまともにケンカしようと思っているのは共産党しかないんだから、僕は共産党の言い分はきちんと聞きたいと思ってるんだ。

【眞理さん】いやいや、違うでしょう。意見や質問を最後までちゃんと聞いてよ。

【田原】だから、質問をどんどんし合って、議論を深めたい……。

互いにストレートでありながら、どこかちぐはぐな父と娘のやりとりは、実に興味深いものがあった。正鵠を射ていたのは、明らかに娘である。改めて質問をつづけた。

――反対の意見とぶつかっても、そのことを恐れずに議論をしていく田原さんの姿勢に視聴者たちは……。

【田原】いや、あの、だから僕は……。

【眞理さん】もう、まだ質問が終わってないでしょう。

■亡き妻と、娘のダメ出しへの感謝

――質問をつづけます。意見の異なる人、極端に考えの違う人と議論が白熱しても、たとえばSNSで炎上することも恐れずに、討論を広げて活発化させていく強引さが田原さんの持ち味であり、魅力であると思って、視聴者は番組を見ているのではないでしょうか。

【田原】うん、炎上するのは大歓迎。無視されるよりは炎上したほうがいいじゃない。

田原氏が、日本テレビの元アナウンサーであり、プロデューサーでもあった妻・節子さん(2004年に他界)に、生放送の番組が終わるたびに、いわゆる「ダメ出し」をされていたというエピソードは有名である。互いに再婚の身であり、いくつもの困難を乗り越えた夫婦のありようは、田原総一朗・田原節子共著『私たちの愛』(講談社・2003年)に詳しい。

【田原】彼女と出会ったときにね、こんなに考え方、気の合う人がいるのかと思った。もちろん、彼女のほうが僕より才能はあるし、能力もある。だから、結婚して、ほとんど彼女のいうことに従っていました。彼女のいうことは一つひとつもっともだと思いましたからね。

やっぱりね、夫婦ってそういうものだと思うんですよ。本音で話し合える。そのうえ、率直にいって僕より彼女のほうがはるかに能力がある。

■「僕のことを思って論破してくれるんだから。本当にありがたい」

――たいていの夫はそうですね。たとえ職場で威張っていても、家庭では妻に論破される。

【田原】いいじゃないの、論破されて。むしろ論破されることがうれしいんですよ。そんなに議論につきあってくれる相手って奥さんしかいませんよ。いま、女房がいなくなって、娘がどんどん論破してくれる。ありがたいですね。僕のことを思って論破してくれるんだから。本当にありがたい。

――聞く耳は持とうとしているんですか。

【田原】うん、大事にしているんだけどね、本気になると、聞く力を失っていっちゃうんだよね。怖いですね。娘の意見はとても必要だし、貴重です。

――眞理さんは、田原さんをどうご覧になっていますか。

【眞理さん】せっかちなんですよ。年をとって、さらにせっかちになりましたね。人の話を最後まで聞けないで、本人が早とちりしたり勘違いしたりしたまま自分の意見を話し始めるんです。

【田原】いや、あの……(か細い声で)聞こうとは思ってるんですが……。

【眞理さん】全然ダメです。90歳という年を自覚して、ちゃんと人の話をとにかく最後まで聞きなさい、といっています。

■娘の言葉は一切さえぎらず、目をつぶってうなずくだけだった

――娘さんは、こうおっしゃっていますが、田原さん、いかがですか。

【田原】(小声で)娘のいうとおりだと思います。

【眞理さん】いいえ、わかってないじゃないの。

【田原】はっはっは。

言葉のやりとりだけを読むと厳しそうに思えるが、眞理さんの口調には、卒寿を迎える父をいたわるようなやさしさとユーモアがあった。

それになにより、田原氏の表情である。眞理さんが指摘するのを聞いているとき、田原氏は、たれ気味の目尻をいっそう下げ、なんともいえないといった様子で柔らかな笑みを浮かべていた。口をすぼめたまま、口答えひとつせず、うなだれるように、相好を崩して黙って娘の話を聞く田原氏。苦言に渋々と耳を傾けているというより、温かな幸福感に包まれているといった形容がふさわしい表情であった。

テレビ番組で「まったく違う!」「そんな話は聞いていない!」と大上段にゲストやパネリストらの発言をさえぎる暴走も独善も、そこにはなかった。田原総一朗を黙らせ、確実に論破できる一人は、間違いなく娘の和田眞理さんである。

■ソニー創業者・盛田昭夫氏の忘れられない言葉

――日経平均株価が4万円台を越えました。「失われた30年」といわれてきたわけですが、どう見ていますか。

日本はチャレンジをしてこなかったのだと思いますね。

僕はね、1970年代、ソニー創業者の一人である盛田昭夫さんととっても親しかった。盛田さんが常に僕にいったのは「ソニーという会社は世界中のどこもやっていないことにチャレンジするんです」ということでした。3回、4回と失敗するかもしれない。だから失敗する覚悟を持たなければいけない。

そうやってチャレンジをしてきたために、1980年代、日本はどんどん成長して、経済は世界一になった。ところが、日米構造協議で貿易不均衡だとアメリカに責められて、1990年代以降、政治家も経営者もチャレンジをしなくなった。経営者たちは「失敗しない経営」を打ち出した。それはチャレンジをしないということです。

アメリカのやっていることをミニチュアでより安く作るということばかりするようになった。アメリカの真似だから世界への輸出も伸びない。働く人の給料は上がらない。それで日本はダメになったと思いますね。

■最期の瞬間までジャーナリストであり続ける

――この4月、90歳を迎えられます。

こんなに長く生きるとは思わなかった。

――80歳になったとき、「『朝生』本番の討論中にそのままぽっくり逝けたら本望です」とおっしゃっていました。

いまもそう思ってますよ。どこまでつづけられるかだね。やっぱりつづけたいと思っているんです。

まず、言論の自由を守るということ。言いたいことは全部言える世の中でありつづけることです。そして、日本の政治に緊張感がないから、野党にもっと強くなれと言いたい。

――政治とカネの問題で自民党が揺れています。こういうときこそ野党がしっかりしろと。

そのとおり!

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樽谷 哲也(たるや・てつや)
ノンフィクション作家
1967年、東京都生まれ。総合雑誌編集者を経て、98年独立。大手流通雑誌で13年半にわたり「革命一代 評伝・渥美俊一」を連載。『文藝春秋』で「ニッポンの社長」「ニッポンの100年企業」など連載人物評伝、ルポルタージュを多数執筆。著書に『逆境経営』(文春新書)がある。
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(ノンフィクション作家 樽谷 哲也 聞き手・構成=ノンフィクション作家・樽谷哲也)

]...以下引用元参照
引用元:https://news.nifty.com//article/magazine/12179-2942971/

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