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53歳のクドカンは“中高年男性のアイドル”になったのか、それとも元々…「不適切にもほどがある!」が“炎上と絶賛”で真っ二つに割れる理由(2024年3月8日)|BIGLOBEニュース -芸能ニュース/炎上まとめ

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53歳のクドカンは“中高年男性のアイドル”になったのか、それとも元々…「不適切にもほどがある!」が“炎上と絶賛”で真っ二つに割れる理由

2024年3月8日(金)18時0分 文春オンライン

 今冬ドラマ一番の話題作、宮藤官九郎脚本×阿部サダヲ主演の『不適切にもほどがある!』(TBS系)、通称『ふてほど』。プロデューサーは『池袋ウエストゲートパーク』や『木更津キャッツアイ』などクドカンの名作をてがけた磯山晶。

 本作は、1986年に生きる中学校の体育教師で野球部顧問の小川市郎(阿部サダヲ、未見の方もいるため、以降は役者の名前で記載)が、偶然タイムマシンのバスに乗り込んで2024年にタイムスリップしてしまい、昭和と令和を行き来しながら、価値観の違いに驚きながらも昭和スタイルで令和の世の中を生き始める……という物語だ。

主演の阿部サダヲ 公式Xより

 放送後には絶賛記事がネット上に溢れ、SNSでも中高年を中心に盛り上がる一方で、回を重ねるごとに女性や若い世代からの批判や疑問の声も増えてきている。

 折り返しにあたる6話まで進んだ現時点の率直な感想は、「良くない方の予想外が起きている」というもの。

 小ネタをちりばめた「昭和あるある」の懐かしさを楽しむだけのドラマじゃなかったことは予想通り。

 また、阿部サダヲが単純にタイムスリップするのではなく昭和と令和を行き来するというのも多くの視聴者が予想した通り。

まるで昭和のオヤジ世代が自分で自分を称賛するかのよう

 では、何が予想外だったのか。

 それは「クドカンが単純な対立構造を描くわけがない」という多くのファンの信頼を裏切っていることだ。6話時点までは「昭和vs.令和」の単純な対立構造が続いているのだが、主人公は昭和スタイルを貫いて全く変化せず、逆に令和の人々がそれに感化されるオチに帰結している。

「不適切」とはいうものの、本作の阿部サダヲは「忘れ去られた、時代に取り残された、光の当たらない過去の人」じゃない。過激な物言いが重宝されてテレビ局の専属カウンセラーになり、本人が「俺は不適切だから」と言っても、周囲は「不適切くらいがちょうど良いんだよ」ともてはやす。まるで昭和のオヤジ世代が自分で自分を称賛するかのようで、見ていて恥ずかしい。

 実際、SNSでもまっすぐ絶賛しているのは中高年の男性に見えるアカウントが多い。それがクドカンの本意ではないとしても、彼らの「昭和は良かった。令和は息苦しい」という感覚にクドカンがお墨付きを与えてしまっているのだ。面白いのは、繊細さを欠いたこのドラマに “珍客”——三原じゅん子近藤真彦が反応し、盛り上がるような大衆的盛り上がりが生まれていること。

 1話から危なっかしく見えていたが、決定的にクドカンが踏み外したように見えたのが、吉田羊が演じた令和の社会学者キャラクターの描写だ。シングルマザーで中学生の息子を持ち、ジェンダー問題専門の社会学者という設定はネットの保守派にとって格好の攻撃対象だが、ドラマの中でも何のひねりもなく悪者扱いする4話の描写に批判が殺到したのだ。

 吉田羊の元夫(昭和では中田理智、令和では三宅弘城が演じている)が阿部サダヲの元教え子だったことがわかり、タイムスリップのきっかけになったタイムマシンを開発した張本人なことも判明する。

 しかしその後、昭和に行った吉田羊の息子と中学生時代の元夫が仲良くなってしまい、BLの元祖とも言われる『風と木の詩』(竹宮惠子作)をきっかけに元夫が息子に告白するという事態に発展する。それを息子から聞いた吉田羊が、中学生時代の元夫に対してヒステリックにこう言い放つ。

「イノウエくん、よく聞いて。あなた自分がモテないからって、女を軽視してる。女性蔑視。あなたそういうとこある、昔から。ミソジニーの属性があるんです、昔から。そういう男に限ってホモソーシャルとホモセクシャルを混同して、同性愛に救いを求めるの。イノウエくん、今ここ。わかる? 女にモテなくて男に走ってるの。あなた中二病なの。女が悪いって考えを捨てない限り、モテないし、変われない」

 たしかに吉田羊は元夫のパワハラに苦しんでいて、その個人的な恨みはあるのだろう。しかしジェンダー問題を専門とする社会学者の発言としては、あまりにも雑だ。

 こんな昭和の居酒屋でオヤジたちがくだを巻いているような“ホモソ社会ど真ん中の言い分”をクドカンが書いたのか、本当に私たちが知っているクドカンなのかを疑ってしまう雑さだ。

トリンドル玲奈の扱いも「さすがに悪趣味」

 この回が放送されるとLGBTQ当事者や若い世代を中心に、「ふてほど」に対してハッキリ批判的な反応が増えた。

 同じ第4話では、インティマシー・コーディネーター役で出演したトリンドル玲奈の役柄にも違和感を持った人が多かった。

 インティマシー・コーディネーターとはドラマや映画のベッドシーンなど性的なシーンの専門家で、俳優の希望を繊細に聞き取りながら撮影方法やシーンそのものにも関わるプロだ。近年では『エゴイスト』などで起用されたことで有名になり、地上波では『エルピスー希望、あるいは災いー』(カンテレ制作・フジテレビ/2022年)で初めて導入されている。

 しかし「ふてほど」のトリンドル玲奈は「肌を見せてはいけない」と単純な主張を繰り返すだけで、阿部サダヲに激怒されると、最後は「俳優の好きにさせてみたい」と職務放棄にしか見えない発言に至る。しかもドラマ内ではこれがなんとなくいい話として扱われて話が進んでいく。

『エルピス』の佐野亜裕美プロデューサーはかつてTBSに所属していて、フリーランスを経てカンテレへ移籍して『エルピス』を作った。その経緯を考えても、佐野プロデューサーの古巣TBSのドラマでインティマシー・コーディネーターを揶揄するように登場させるのはさすがに悪趣味だ。TBSのホモソ的な悪ノリに見えてしまう。

 ちなみに『ふてほど』の現場にはインティマシー・コーディネーターが入っていないという。

「もともとクドカンは、ずっと男子高ワチャワチャノリが大好き」

 こうして徐々に『ふてほど』に対して批判的な声が大きくなる中で、「もともとクドカンは、ずっと男子高ワチャワチャノリが大好きなホモソドラマの人だよね」という“擁護”とも批判ともとれる声が増えてきた。これは確かに一理ある。長瀬智也の出演作品に代表される、男くさい、男だらけのホモソーシャルを魅力的に描くのがクドカンの得意技であることは間違いない。

 それでも、筆者を含めて多くの人がクドカンに弱者への繊細さを期待してしまったことにも、理由がある。『あまちゃん』や『いだてん〜東京オリムピック噺〜』など、切り捨てられてしまった少数派に光を当てる作品を多く作ってきたからだ。

 しかし冷静に考えてみれば、クドカンドラマに登場する女性はステレオタイプを繰り返している。

『木更津キャッツアイ』の酒井若菜に始まり、『あまちゃん』ののん/能年玲奈に至る「ちょっとアホ可愛い女子」の系譜と、『あまちゃん』の橋本愛や小泉今日子に代表される「ヤンキー」の系譜、その他大勢の「面倒見が良く、情が深く、優しく温かく豪快で、男を許し、受け入れてくれるおばちゃん/お母さん」の系譜の3種にほとんどが収まる。

 “女性の連帯”をテーマにした『監獄のお姫さま』(2017年)でも、肯定されたのは面倒見が良くあたたかく懐の深い「おばさん」たちだった。

 昨年8月からDisney+で放送が始まった『季節のない街』で、クドカンは貧困やホームレス、発達凸凹、認知症、父親が全員違う子どもたちなど、ワケアリの人々を魅力的かつ繊細に描いてみせた。

「女ってのはなんで亭主の機嫌損ねることをわざわざ言うんだろうね」

 しかしそんな中でも、荒川良々と怒髪天・増子直純という向かいに住むオヤジ同士の間で、こんな引っかかるやり取りが登場する。

「女ってのはなんで亭主の機嫌損ねることをわざわざ言うんだろうね」

「近頃じゃおめえ、そんなこと言うとジェンダーがなんだっつって叱られるらしいからな」

「おう、SDGsか」

 もしかするとクドカンにとって、男性に許しを与える立場に収まらず、若者でもない「わきまえない女」「正論を言う女」はもしかして「PTA」で「クレーマー」なのだろうか。

 クドカンは大人計画でながらく「ウーマンリブ」という舞台シリーズを主宰してきた。その15弾作品「もうがまんできない」が昨年5月に上演された時のコメントも、振り返れば『ふてほど』に通じるものがある。

「日々の暮らしの中で、俺は、私は、本当はこう思ってるけど、そういうこと声に出して言うと今、怒られる時代だからなぁ、そんな風に我慢して飲み込んだ、あんなこと、こんなことを、皆さんに代わって叫ぶ、そんなスカッとするお芝居です」

 サブカルのカリスマ、クドカンも気づけば53歳。団塊ジュニアたちとともに歩む中で、気づいたらファンたちも年をとり、かつては何者でもない若者だった世代が年齢なりの権力を持ち、今では大きな声のマジョリティとなっている。それでいて「一生青春」の男子高校生ノリは維持しているのだ。

 老いを知ることで幼児性と老化が同居する一方で、その中間の「成熟」がすっぽり抜けている状態は、今の日本社会にもよく似ている。それがTBSのホモソノリと一緒になり、「昭和礼賛」「おっさん礼賛」に向かってしまったとすれば残念だ。

『ふてほど』にも、たしかに構成の巧みさなどさすがクドカンだと思わせる部分はある。『あまちゃん』を筆頭に地震の取り扱いが上手いことは知られているし、長瀬智也の引退ドラマ『俺の家の話』などで発揮した家族の物語を描くスキルも仲里依紗のエピソードなどに生かされていて、グッとくる場面も多い。

 それだけに、震災やホームレス、障がい、貧困などは繊細に描写していてもジェンダーの問題になると途端に雑になるというクドカンの特性が表に出てしまった残酷な『ふてほど』をどう受け止めていいのか今でも悩んでいる。

(田幸 和歌子)


文春オンライン


]...以下引用元参照
引用元:https://news.biglobe.ne.jp/entertainment/0308/bso_240308_9830095574.html

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