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年の瀬の北京。 また1つ老舗が姿を消しました。
常連客に愛された店でしたが、3年に及んだゼロコロナ政策や原発処理水の放出などが経営の打撃になったといいます。
「なだ万」北京店 竹中健太マネージャー
「日本では味わえない経験を今までずっとさせていただきました」
五十嵐優料理長
「また、どこかでお会いできる日を楽しみにしております」
客
「北京で本当の日本料理を食べられるところがなくなるという気持ち」
一方で北京に戻ってきた日本料理店も…。
「百合亭」朝来百合子さん
「どう?北京楽しい?」
北京のお母さんと呼ばれる朝来百合子さんです。
朝来百合子さん
「せっかく来たんだから北京を大好きになって、中国語を覚えるのもいいけど、中国のお友達いっぱい作んな」
中国で延べ28年にわたって居酒屋を営んできました。コロナ禍や治療のための一時帰国を経て去年10月、およそ4年ぶりに北京に戻りました。
常連客
「戻ってくるのをひたすら待ってましたから。生き生きしてますよ。とっても生き生きしてます」
朝来百合子さん
「(私がいない間は)中国のお客さんが本当に助けてくれた。私もどこかで恩返しがしたい」
逆風をものともせず、この日は沖縄イベントを開催。日中のお客さんが一緒に盛り上がりました。
客
「沖縄、行きたいです!」
あまたのドラマを見届けてきた様々な北京の日本料理店。そもそも、いつ生まれたのでしょうか。
朝来百合子さん
「 『白雲』だと思います」
日本料理人 三輪啓さん
「自分もそう聞いています」
割烹「白雲」は、1983年7月に日中両国の協力のもと、民間交流のためという目的でオープンしました。
高級ホテル・北京飯店にあった日本食レストランなどとともに日本料理の第一世代と呼ばれています。
「白雲」の元料理人 劉巻勇さん
「22か23歳だったね」
劉さんは白雲の開業のため、東京に半年間派遣され、日本料理を一から学びました。
劉巻勇さん
「最初は包丁も握れなかった。手をたくさん切りました」
本物の日本料理を目指し、牛肉やマグロは日本から空輸。三つ葉や大葉など欠かせない野菜は、日本から持ってきた種を北京の畑に植えて調達したそうです。
劉巻勇さん
「中国人が開店したように見えるから、美味しいかどうか信じられないと言う日本人もいました。しかし、私たちの材料を見て料理を食べた後には親指を立て、とても良いと褒めてくれました」
引退した今は…。
劉巻勇さん
「この仕事をしていたので、日本に愛着があります。引退後は毎年、日本を訪れています」
取材を進めると、さらに深い歴史が明らかになりました。
日中国交正常化より、10年早い1960年代初め。北京中心部の繁華街・王府井(ワンフーチン)に戦後初の日本料理店「和風」はありました。
「当時、めずらしい日本式の玄関」で、「北京でもおいしい日本料理が食べられる」と紹介されています。
南村志郎さんは、「和風」の開店に向けて、中国きっての知日派と呼ばれた廖承志(リョウ・ショウシ)氏や民間大使と呼ばれた西園寺公一氏らと汗を流した一人です。
「日中未来の会」代表 南村志郎さん
「日本料理屋をやって大丈夫かなという気持ちがあった。開店したはいいけど、中国人が来て文句を言われるんじゃないかと」
不安もにじむなかでの出発でしたが…。
南村志郎さん
「開店と同時に満員御礼みたいなことでね。部屋は大体、毎日埋まってた状態で、ひとつは珍しかったんでしょう」
お座敷には京都から取り寄せた畳が使われ、日中関係の「井戸を掘った人たち」が、刺し身や寿司に舌鼓を打ちながら両国のこれからについて語り合ったのだといいます。
南村志郎さん
「料理屋ってのは日中交流のために貢献したんじゃないかと思う。(民間交流が)基礎だと思う。日本と中国の民間が協力すれば、政府も動かざるを得なくなる」
60年という歳月が流れ、北京の日本料理店は着実に裾野を広げてきました。 きょうも朝来さんは店に立ち続けています。
朝来百合子さん
「はっきり言って北京の状況は飲食の状況は非常に悪いです。『百合亭』の門をくぐってくれた人は皆、元気になって帰ってほしいというのが、私の夢だし、希望だし来年(2024年)の抱負です」
[テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp
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