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シングルマザーと非正規中年男性、より弱者はどちらか…弱者に寄り添うはずのマスコミが見落とすKKO問題|ニフティニュース


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日本のマスコミの多くは「弱者に寄り添う報道」を信条としてきた。ところが、そうした報道が批判を集めることも少なくない。ジャーナリストの佐々木俊尚さんは「前世紀と違い、いまの社会では弱者と強者は固定化されたものではない。それなのにマスコミは『絶対的な弱者』を前提にしている」という――。(第1回/全3回)※本稿は、佐々木俊尚『この国を蝕む「神話」解体』(徳間書店)の一部を再編集したものです。

■マスコミの「弱者に寄り添う」の「弱者」とは誰か

「弱者」「マイノリティ」などの用語は、21世紀になって棍棒のように振り回されすぎたせいで、すっかり軽いことばになってしまった。新聞やテレビ、ツイッターなどいたるところに「いまの政治にはマイノリティへのまなざしが欠落している」「弱者に寄り添え」などの言いまわしがあふれている。

もちろん、弱者の味方をすることが悪いわけではない。弱者を救うのは当然のことだし、それを否定する人はいないだろう。では、このように「弱者」「弱者」と言いつのることの問題点とは何か。

それは「弱者」「マイノリティ」がいったいだれを指しているのか、ということが大きく変化してきていると認識されていないことである。弱者の意味が変わってきているのに、それを看過してしまって、ステレオタイプに弱者、マイノリティと言い続けていることが問題なのである。

■昔は障がい者やLGBTが「弱者」と捉えられていた

この数十年の歴史を振り返ってみよう。

1960年代の高度経済成長の頃から1990年代ぐらいまでは、日本は「総中流社会」と呼ばれていた。貧困はほぼ撲滅したと思われていて、格差はあってもさほどは目立たず、大半の日本人が「自分は中流である」と考えていた。マジョリティとマイノリティの違いは明快だった。

この時代のマスコミには「標準家庭」という用語があって、会社員の夫と専業主婦の妻、子ども2人の4人家族の意味だった。増税などのニュースがあると、新聞やテレビは「標準家庭では、平均して年に1万2000円の負担増になります」と解説していた。

すなわち、この4人家族こそが「標準」でありマジョリティだったのである。そしてこの「標準」に当てはまらない人が、マイノリティ。障がい者や病人やLGBTや在日の人、さらには働く独身女性なども、時にこのマイノリティの箱に入れられていた。

わたしは1990年代には、事件・事故や社会問題を扱う全国紙の記者だった。先輩や上司からは、さかんに新聞記者の理念を叩き込まれた。このような理念だ。

「マイノリティの目線で社会を見よ。社会の外側から社会の内側を見て、光を逆照射することによって、総中流社会に潜んでいる問題が見えてくるのだ」

この理念は、21世紀になっても綿々とマスコミの中に引き継がれているように感じる。しかし世紀が変わって、時代の空気も大きく変化している。それにマスコミの人たちは気づいていない。

■圧倒的「強者」だった男性が「弱者」に転がり落ちてきた

最大の変化として、2000年代の小泉純一郎首相のときに派遣法が改正され、非正規雇用がどっと増えたことがある。いまや働いている人の4割が非正規雇用である。正社員はだんだんマジョリティではなくなってきている。

さらに正社員であっても、平成不況の30年のあいだにコスト削減と人員削減のあおりを受けて仕事はきつくなり、労働時間も増え、ブラック労働の問題も大きくクローズアップされるようになった。終身雇用は事実上崩壊し、いつ会社が潰れるのか、いつ自分が失業するのかわからないという不安を、非正規の人だけでなく正社員の多くも感じるようになっている。

つまり圧倒的な強者だったはずの男性が、平成のあいだに弱者に転落してきているのである。「家父長」という古いことばもあるように、昭和の頃までは男性は家庭でいちばん偉い人だった。会社や組織には、偉そうにいばっている中年の男はたくさんいた。いまでもそういう人がいなくなったわけではないが、多くの男性が結婚もできず、非正規で働き、正社員であっても日々抑圧されて、弱者に転落している。

「総中流社会」もすっかり崩壊し、格差が広まり、富める者と貧しき者の上下の分断が進んでいる。年収200万円以下の貧しき中年男性が、どうして強者やマジョリティになれるというのだろうか。

■「総弱者社会」の到来

さて、このように前世紀とくらべると社会構造が大きく変化したのにもかかわらず、マスコミはいまも「マイノリティの目線で社会を見よ」という古い姿勢を引きずってしまっている。

LGBTや障がい者への差別がなくなったわけではないのはもちろんだが、「差別される弱者」は一部の人たちだけではなくなったことが大きな変化なのである。LGBTや障がい者だけが弱者なのではなく、社会のあらゆる層が弱者化していくという「総弱者社会」が到来しているのである。

この「総弱者社会」では、だれが弱者になっていてもおかしくない。しかし、もし全員が弱者になってしまったら、いったいだれが弱者を守ってくれるのか?

■シングルマザーと非正規中年男性、どちらがより弱者か

ほとんどの人が弱者である社会をイメージしてみよう。弱者の「弱さ」にも強弱がある。強いところと、弱いところがある。

たとえばシングルマザーは、とても弱い存在だ。厚生労働省の2016年の調査だと、母子世帯の母親の平均年収は約200万円だという。働いている人全体の平均年収の半分以下である。支援も行き届かず、困っている人はとても多い。

では、シングルマザーよりももっと弱い弱者はいるだろうか? インターネットのスラングで「キモくて金のないオッサン」というのがある。略して「KKO」という。年収200万円以下の非正規雇用の人は日本に1000万人近くいて「アンダークラス」などと呼ばれているが、このアンダークラスの中でも中年の男性はとびきりの弱者だ。彼らをシングルマザーと比べてみたらどうだろうか。

もちろん、ひとりひとりによってさまざまなケースがあるので、単純に「どちらがより弱者か」などと比較するのは、倫理的にもよろしくない。しかし、それでも強いて比較対象として見ると、シングルマザーには一点だけKKOに優る部分がある。それは「女性だから、助けの手を差し伸べてもらいやすい」という点だ。

■「だれが弱者か」を決めつけるのは問題

KKOは、容易に助けの手を差し伸べてもらえない。なぜなら「キモい」からである。ボランティアなど女性の支援者がうかつに手を差し伸べたりすれば、勘違いして襲ってくることだってあるかもしれない。だれからも見棄てられてしまう可能性が高いのが、KKOなのである。しかし社会は「彼らは男性だから」という理由で弱者として扱うことをしない。

「だれが弱者で、だれが弱者ではない」と決めつけることの空しさが、ここにはある。

女性とトランスジェンダーのどちらが弱者なのか? という議論も、複雑だ。

しばらく前からくすぶっている「トランスジェンダー女性はスポーツ競技の女子種目に参加していいのか?」「トランスジェンダー女性は、女子トイレや女性用の浴場を使っていいのか?」という議論がある。トランスジェンダー女性というのは、もとは男性だったが「自分は女性である」と自認している人たちのことを言う。

ここで厄介なのは、性別適合手術を受けていないトランスジェンダー女性でも、これらの権利を認めるべきだという訴えがあることだ。

トランスジェンダーは弱者である。弱者の権利は保障されなければならない。このロジックで言えば、みずからを女性と自認するトランスジェンダー女性は、女子競技への参加や女子トイレ使用の権利を認められなければならない。

しかしシス女性(性自認と生まれ持った性が一致している女性)からは、反論が出ている。当たり前のことだ。元男性で筋力など運動能力が非常に高いトランス女性が女子競技に出れば、運動能力に劣るシス女性は入賞できなくなってしまう。男性器をつけたままの見知らぬ人といっしょに風呂に入ってもいいと思う女性も多くはないだろう。

このように「どちらが弱者なのか?」という話は、社会のいたるところに点在している。「だれが弱者か」を固定的に決めつけてしまうのは、問題が多いのだ。

かといって、ここで「弱者ランキング」を作成して比較するようなことも、意味はない。そんなランキングは、歪んだヒエラルキー意識を社会に持ち込むだけだからである。トランスジェンダーはある場面では弱者であり、別の場面では強者にもなり得る。そういう理解が最も公正なのではないだろうか。

■生活保護29万円のシングルマザーが叩かれる世の中

2013年に、とある生活保護家庭の家計についての記事が朝日新聞に出た。「貧困となりあわせ」という見出しの記事で、家計はこう紹介されている。41歳の母が14歳の長女と11歳の長男を育てる母子家庭。受給している生活保護の額は毎月29万円。その使い道の内訳も掲載されており、習い事などの娯楽費に4万円、衣類代に2万円、携帯電話代に2万6000円、固定電話代に2000円。

この記事がネットに出まわると、批判が殺到した。「私の給料より多い」「なんで毎月2万円も服が買えるんだ」などの声がたくさん聞かれた。

それぞれの家庭にはさまざまな事情があり、この家のお金の使い道が妥当かどうかは簡単に決めつけられることではない。しかし、この炎上ケースから見えてくるのは、「生活保護の母子家庭=弱者」「会社員=強者」という20世紀的な構図が崩れてきており、ブラック労働で給与も減っている一般労働者のほうが、生活保護家庭よりも悲惨な生活を強いられていることだってある、ということだ。

2021年、車椅子の女性がJRの無人駅に行こうとしたところ、JRから「乗車拒否」にあったとブログで訴えたことがあった。バリアフリーな社会を目指すのは当然だし、車椅子の女性が弱者であるのは間違いない。しかし彼女のブログは、JRの駅員にかなり強硬な調子で対応を求めているように受けとれ、またマスコミの力を借りてJRを糾弾する対応を用意していることも書かれていた。この結果、ブログは炎上して彼女は批判を浴びることになった。

車椅子の女性と、巨大企業のJRをくらべれば、女性のほうが弱者であるのは間違いない。しかしインターネットでの反応を見ていると、「巨大企業のJR」というよりも実際に鉄道の仕事にたずさわっている駅員さんに同情する声が目立っていた。「エッセンシャルワーカーとしてたいへんな労働を強いられている駅員さんと、マスコミをバックに駅員さんを強く叱りつける女性」という構図になっていたのである。

■マスコミは「新しい弱者」に目配りできていない

すべての無人駅にエレベーターを設置するなどの対応をJRは求められるが、それを決定するのは経営者や役員であって、末端の駅員さんたちではない。JRは強者だが、駅員さんたちは強者ではなく、乗客からのいわれなき非難や暴力にも日々さらされて苦労している弱者なのである。

このように弱者か強者かというのは、その都度の場面によって、関係によって、コロコロと変わる。

だから大切なのは「弱者だから大切にせよ」「強者だから非難されて当然」と最初から決めつけてしまうことではない。弱者と強者が混じり合って存在し、つねに立場が入れ替わってしまうような社会で、その都度バランス良く「何が公正か」を判断していくことなのである。

「こぼれ落ちている弱者はいないか」「弱者が転じて強者となって、逆に抑圧を生んでいないか」ということを、わたしたちはつねに振り返り続けなければならないのだ。

しかし20世紀の価値観から抜け出せない新聞やテレビ、そして一部の社会運動は、いまも「絶対的な弱者」観に頼り、「新しい弱者」に目配りできないままでいる。社会に対する観察の射程があまりにも短すぎるのではないか。

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佐々木 俊尚(ささき・としなお)
ジャーナリスト、評論家
毎日新聞社、月刊アスキー編集部などを経て2003年に独立、現在はフリージャーナリストとして活躍。テクノロジーから政治、経済、社会、ライフスタイルにいたるまで幅広く取材・執筆を行う。『レイヤー化する世界』『キュレーションの時代』『Web3とメタバースは人間を自由にするか』など著書多数。総務省情報通信白書編集委員。TOKYO FM放送番組審議委員。情報ネットワーク法学会員。
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(ジャーナリスト、評論家 佐々木 俊尚)

]...以下引用元参照
引用元:https://news.nifty.com//article/magazine/12179-2656643/

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