かつての名家は借金で大炎上…教団にお布施三昧の母とギャンブル沼にハマった父が娘に"無心"した1000万円超
2023年9月23日(土)11時16分 プレジデント社
50代女性の母親は、信仰する山岳宗教にお布施を続け、父親はギャンブルや酒にお金を大量に費やした。家計は火の車となり、多額の負債を負う羽目に。大学卒業後に金融関係の会社で働き始めた女性は両親から“経済的支援”を求められる——。
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■依存症の両親
祖母の死から2年後、25歳になった小栗さんは、大学の友人の紹介で出会ったメーカー勤務の2歳年上の男性と交際を開始。母親との関係に辟易していた小栗さんは1年後、家を出たい一心で結婚を決め、結婚後は夫の仕事の関係で、両親が住む九州の実家から遠く離れた東北地方に移った。
祖母の死後、父親は高速道路の料金所で働き始め、母親は止める祖母がいなくなったためか、掃除のパートに出るようになっていた。
小栗さんは社会人になって以降、結婚して家を出るまで両親が求める額を家に入れていた。
しかしそれは結婚後に家を出てからも続いた。毎月のように両親から金銭の要求があり、月に2〜3万振込続けていた。時には父親から「母さんには内緒にしてくれ」と前置きをして、10万円ほど要求されることもあった。
写真=iStock.com/FotoFabbrica
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それでも足りなかったのだろう。小栗さんが結婚して家を出た後、両親は、実家から車で30分ほどのところに住んでいた兄にも金の無心をするようになっていた。
■妊娠しない娘のために母親は宗教にすがっていた
父親は相変わらずギャンブルやアルコールに依存。外に働きに出るようになったとはいえ、母親は相変わらず山岳宗教に依存していた。稼いだお金も小栗さんが振り込んだお金も、父親はギャンブルやアルコールに使ってしまい、母親はお布施に使ってしまう。小栗さんの結婚後は専ら、なかなか妊娠しない娘のために母親は宗教にすがっていた。
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小栗さんは不妊治療を経て、34歳の時に第1子を出産。両親はとても喜んでくれた。
ところが両親が70代になる頃、光熱費や納税の滞納が続き、ついに財産の差し押さえ通知が届く。
この頃、父親は軽い認知症と診断されていたが、時々常軌を逸した言動をする母親を、大酒を飲みながらも見守り、世話をしていたようだ。母親が「連れていけ!」と喚けば、酒を飲んでいる途中でも“教団”に送迎した。そのため、飲酒運転で捕まっては、同じ県内に住む兄が保護監督責任者として警察に呼び出されていた。
「兄が27歳のとき、職場の女性と交際していたのですが、母が兄の会社に乗り込んでいき、社長に向かって相手の女性がうちの息子をたぶらかしたとか、あることないことぶちまけ、相手の女性に無言電話をかけるなどの嫌がらせをしたそうです。会社まで付き添った父から聞きました。それ以降、兄は実家を避けていましたが、両親が70歳を過ぎた頃から頻繁に警察に呼び出されるようになったようです」
母親の常軌を逸した行動を父親が止めなかったという点にも闇を感じる。
母親は子供たちの交友関係にもうるさかった。「片親や士農工商の商売人、部落出身の子どもとは付き合うな。良い家柄の子と付き合いなさい」と時代錯誤も甚だしく人権意識のかけらもないことを口にした。
小栗さんは小学校6年生の頃、両思いになった男の子と親に内緒で映画に行ったことがあるが、近所の人に目撃され、ほどなくして母親の耳に入ると、気が狂ったように怒鳴り散らされた。それ以降、夫と出会うまで小栗さんに交際歴はない。
「4学年上の兄が母にされたことを見ているので、自分は母が反対しない人を見つけて結婚しようと思っていました」
小栗さんの夫は偶然にも小栗さんの遠い親戚同士が婚姻関係にあり、同レベルの家柄。その、小栗さんと同じ大学出身だったため、母親は少しも反対しなかったという。
■悲しい夫婦
2013年。75歳になった父親は、若い頃は武道で鍛えたガッチリした体格だったにもかかわらず、急激にやせ細っていった。しかし母親は父親を病院に連れて行こうとはせず、父親自身も行きたがらなかった。
3〜4カ月に1度ほど帰省していた小栗さんが、「病院に行きなよ」と声をかけるが、すかさず母親が、「ただの年だから大丈夫よ。病気が分かりゃあ、私が土地を売って金を作って、きちんとしてやるから」と言った。
「両親は常に慢性的な負債を抱えていたので、母が父の医療費を出し惜しみするのです。私もできる限りの金銭援助はしていましたが、明らかに父の医療費には回っていないようでした。そんな母に対して、父は諦めていたのだと思います」
心配でたまらなかった小栗さんは、自分の帰省中に父親を病院へ連れて行くことにした。母親に父親の「健康保険証を出して」と言うと、母親は「この家は先祖代々私の家系のもの。全部私の財産だ。よそ者の婿養子(父)のものは何にもないんだ」と言って渋った。
母親を説き伏せ、何とか受診して検査を受けたが、不思議なことに、父親に悪いところは見つからなかった。
小栗さんが帰った後も、相変わらず母親は“教団”に行きたがり、父親は飲酒運転を繰り返す。その度に兄は警察から呼び出されていた。
写真=iStock.com/makisuke
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2017年冬。ついに我慢の限界に達した兄は、父親の車を無断で廃車にしてしまった。それを知った父親は、「車がないと生きて行けんのに、わしらを殺すつもりか!」と激怒。
その約2カ月後、79歳の父親は、入浴中に眠るように亡くなっていた。
■悲しい親子
兄から父親の訃報を受けたとき、小栗さんはその声の冷たさに驚きを隠せなかった。
「私の故郷は、車が無ければ生きられないほどの田舎町です。情緒不安定な母の気分転換や通院、買物に車が無ければほとんど何もできません。遠方に住んでいる私は、兄に両親を託していました。兄に対して、料理や洗濯などの家事は期待していませんでしたが、親の買物や送迎くらいならやってくれるだろうと思っていたのです。しかし兄は、全くしていませんでした」
その時の電話で兄は、両親があまり食事を摂っていないことを知っていながら、「放置していた」と言った。
写真=iStock.com/onsuda
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「兄からは後悔や罪悪感は全く感じませんでした。兄にしてみれば当然かもしれません。父は、私はかわいがってくれましたが、兄には暴力を振るっていましたし、母は、私はかわいがりませんでしたが、兄は溺愛のあまり、女性との交際をことごとく妨害。そのうえ、常に負債を抱える両親を、私たち兄妹は強制的に金銭的に援助させられてきました。憎しみに近い感情があってもおかしくないと思います。それでも私は兄に、他の人にはない冷たさを感じました」
同時に小栗さんは、ここ数年ほど両親のサポートができなかった自分を責めた。実は父親が亡くなる数年ほど前、小栗さんは夫に、実家に帰省することを禁止されていたのだ。
小栗さんとの結婚後、夫は小栗さんの両親に、知れば知るほど不信感を募らせていた。約3年前、高校生の子どもの夏休みに、小栗さんの実家に3人で滞在したが、その際に、小栗さんの父親が泥酔して倒れても平気で放置する小栗さんの母親を目の当たりにした。そのうえ夫は、小栗さんの実家に届いた借金の督促状を見つけてしまう。あまりの惨状に絶句した夫は、ついに小栗さんに、両親と距離を置くよう命じた。その間の父親の死だったのだ。
通夜・葬儀のため、小栗さんが帰省すると、母親は浮浪者のようになっていた。何日も入浴していない様子で、髪は固まっており、ボタンが取れたボロボロのカーディガンを着て、安全ピンで前を留めていた。かわいがっていた野良猫たちの糞尿はそのまま放置され、悪臭を放ち、話しかけても目の焦点が合わない。
小栗さんは母親を入浴させ、食事や飲み物を与えた。少し元気になった母親は、繰り返しこう言った。
「私がすぐに助けを呼んでやったんだ! 私がお父ちゃんの面倒を全部見てやっていたんだ! お父ちゃんは風呂に入らんでも良かったんだ!」
小栗さんは、やるせない気持ちになった。
「兄は、両親のために1円もお金を出していませんでした。パンの1つも、飲み物1本さえも……。一方母は、一生懸命、自分に非が無いことを訴えていました。私は母の言葉を聞いて、『これは母の本当の姿ではないんだ。きっと認知症のせいなんだ』と思わずにはいられませんでした」
■嘘つきの血
父親を亡くして80歳になった母親は、それまでも信仰に基づいたおかしな言動が見られていたが、「認知症になるなんて一族の恥」と言い、他人の前ではしゃんとしてしまうため、なかなか認知症の診断がつかなかった。ようやく83歳で診断がつき、要介護1と認定されると、階段を転げ落ちるように症状が悪化し、85歳になる年に要介護3になると、すぐに特養に入所した。
写真=iStock.com/takasuu
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その1年後、兄から電話かかかってきた。内容は以下の通りだ。
・父親の生前、両親の借金を肩代わりするためにお金を借りていた
・その借金を、交際中の女性と入籍する前に完済したい
・その借金を、半分持ってくれないか
聞くと、借金は100万円ほど。その半分の50万円だが、今は手元にないという。
「いい大学を出て、長年公務員の仕事をしている兄が、たった50万円も出せないということに疑問を感じました。私は結婚後、ずっと専業主婦です。節約してコツコツ貯金したお金で時々帰省して、両親のために度々経済的な援助もしてきました」
それでも小栗さんは、入籍する兄へのお祝いのつもりで、半分出すことにした。
ところがその翌日、また兄から電話がある。今度は、交際中の女性が、「入籍前に借金完済の確認をしたい」と言うから、小栗さんから女性に「説明してくれ」という。
よくよく聞き出すと、父親の生前、両親の借金を肩代わりするためにお金を借りたのは本当だが、そのときに借りたのは50万円ほどで、残りは自分の都合で借りたお金。そのことを妻になる女性に知られたくない……というのが真実だった。
「兄はタバコもお酒も、ギャンブルもやりました。兄は親の失態に便乗して、自分の悪事を誤魔化していたのです。兄はよく私に、『俺は親とは違う! 嘘が一番嫌いだ!』と言っていたし、両親のことを無茶苦茶に責めていましたが、金銭搾取のやり方が両親にそっくりで、悔しいやら情けないやら。悲しくなりました」
小栗さんは高校を卒業後、大学に進み、金融系の会社に勤めながらも、要介護状態になった祖母の介護をした。母親は自分の親であるにもかかわらず、祖母の下の世話を嫌がったため、トイレ介助やオムツ替えは父親が担当し、小栗さんは父親をサポートしていた。26歳で結婚するまでは、両親が求める金額を家に入れ、結婚後もそれは続いた。今まで両親のために資金援助してきた金額は、3〜4カ月に一度帰省する交通費も合わせると、1000万円は超えるという。
一方、兄は幼い頃病弱だったため、何度も入退院を繰り返し、高額な医療費がかかっているうえ、私立高校に入学。大学進学時に一人暮らしを始めると、実家にはほとんど帰ってこなくなっていた。
「正直、兄はずるいと思います。でも私は言いたいことを我慢しました。故郷に住む兄が主介護者から手を引いてしまえば、母の施設の手続きの更新も、実家の庭木や雑草のことも、役場やご近所からの苦情対応も税金対策も、全てが滞ってしまうからです。私は、私自身の生活や家族を守るために、兄に“搾取されてあげました”」
実家は母親が特養に移ると同時に空き家になった。家屋は母屋と離れがあり、土地は広大な田畑の他に、墓所となっている山がある。小栗さんは、「将来的には、墓所以外はすべて更地にして現金化し、『兄妹で均等に分けよう』と、私から提案しました」と話す。
■小栗家のタブー
筆者は家庭にタブーが生まれるとき、「短絡的思考」「断絶・孤立」「羞恥心」の3つが揃うと考えている。
小栗さんの話には度々、「家」「名家」「一族の恥」などという言葉が登場するが、古い慣習によって思考停止した状態の祖母や曾祖母、父親の両親たちは、みな短絡的思考に陥っていたと言っても過言ではないだろう。古い慣習が残る地域で「家」というプライドに固執した小栗家は、社会から断絶・孤立していたと思われる。もしかしたら、一族全体が断絶・孤立していたかもしれない。
そんな家庭で育った小栗さんは、調理実習のエピソードの中で、「少しでもまともに暮らしたい一心で」と話したように、小学校高学年の頃には自分の家庭を「まともじゃない」と分かっていた。それは兄も同様で、おそらく2人はそれぞれに自分の家庭を「恥ずかしい」と感じていたに違いない。
一方、人身売買のような形で婿入りし、祖母や母親から小作人扱いされていた父親は、なぜ亡くなるまで逃げ出さなかったのか。
閉ざされ、孤立した家庭では、しばしばまともな思考はフリーズする。小栗さんによれば、父親は生まれ育った家庭で実の母親を早くに亡くし、継母や祖父母から奴隷のように扱われて育ったため、半ば洗脳状態にあったのだろう。だから憎んでいてもおかしくない祖母の介護や、母親の世話ができたのではないか。祖母が亡くなったとき、小栗さんから見て父親が悲しんでいたように見えたのは、小栗さんが祖母から受けたものよりも想像を絶するほどの重圧を与え続けてきた相手を失ったことで、精神のバランスを崩していたのではないだろうか。
昭和40年代頃まで日本の田舎に存在したと言われている「おじろく・おばさ」という特殊な家族制度があるが、父親のこの制度を彷彿とさせる。生まれ育った家で人間扱いされなかった父親は、婿に入った家でも同様に扱われ、祖母や母親と共依存関係に陥り、“身の程をわきまえていた”から最期まで逃げようという発想もなく、病院へ行くことも望まなかったのではないか。
「母はおそらく、何らかの先天的な病気か障害があるように思います。でも、外では人当たりが良く、頭の回転も早かったりするので、周囲は気付かなかったのではないでしょうか。祖母だけは分かっていたのかもしれませんが、結局一人娘のわがままで済ませてしまったのかもしれません」
写真=iStock.com/byryo
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タブーのある家や一族に生まれ育った子どもがタブーから逃れるには、小栗さんや兄のように家を出ることが、子ども自身にできる最善策かもしれない。しかしそれでは手遅れになる場合も考えられる。できれば子どもに関わる学校や近所の大人が注意を払い、手を差し伸べられるタイミングがあれば見逃さないことが、タブーのある家庭の子どもを外から救う唯一の方法だろう。
毒親育ちの小栗さんは現在、ブログに自身の経験を吐き出すことで、解毒作業に勤しんでいる。
「旦木さんの取材に応え、今まで心の底で思い出さないようにしまいこんでいたことを文字に起こしたからか、気持ちの整理がついて、随分心が楽になっています。傷ついてしまった気持ちはもう癒えることはないですが、心のリラクゼーションのマッサージを受けたような感じです」
「傷ついてしまった気持ちはもう癒えることはない」という言葉からわかるように、毒親につけられた子どもの傷は、傷をつけた本人と距離を置いても、年月が経っても、傷をつけた本人が亡くなっても残り続ける。
“名家の分家”というプライドを持ち、一人娘をわがままに育てた祖母。そして長男を溺愛するあまり、交際を妨害し続けた母親。彼女たちは一体、何を守ろうとしていたのだろうか。
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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。
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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)
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引用元:https://news.biglobe.ne.jp/economy/0923/pre_230923_1102546490.html