火の海となった大坂城で将兵たちが次々と自害…「大坂夏の陣」が徳川方の一方的な大虐殺となったワケ
2023年9月1日(金)15時15分 プレジデント社
豊臣秀吉が築いた大坂城は、1615年の大坂夏の陣で徳川家康に攻め落とされ、炎上した。徳川方と豊臣方はどのような戦いを繰り広げたのか。歴史学者の渡邊大門さん編著『天下人の攻城戦 15の城攻めに見る信長・秀吉・家康の知略』(朝日新聞出版)より、両軍が激突した5月7日の様子を紹介する——。
1663年の大阪城(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
■天然の要害に守られた最高の立地条件
天正10年(1582)6月に勃発した本能寺の変後、大坂という経済上・地理上の位置に着目した豊臣秀吉は、大坂本願寺の跡地に築城を決意した。そして、翌天正11年(1583)から約2年の歳月をかけて、中枢部をほぼ完成させたのである。その間、三十数カ国から数万の人夫が動員され、大工事が行われた。
大坂城は上町台地に築かれ、周囲は淀川が流れるなど天然の要害となっていた。それだけではない。地理的には京都、堺にも近く、面前には大阪湾が広がっていた。つまり、交易するには至便の地にあり、立地条件はこの上ないものだった。大坂城には本丸、二の丸、三の丸が築かれ、本丸には五重八階の天守が建てられた。のちに惣構(そうがまえ)が整備され、難攻不落の天下統一の覇者にふさわしい城となった。
大坂城築城の意図や工事の様子については、『十六・七世紀イエズス会日本報告集』に「(秀吉は)己が地位をさらに高め、名を不滅なものとし、格においてもその他何事につけても信長に勝ろうと諸国を治め、領主としての権勢を振うに意を決し、その傲慢さをいっそう誇示するため、堺から三里の、都への途上にある大坂と称する所に新しい宮殿と城、ならびに都市を建て、建築の規模と壮麗さにおいて信長が安土山に築いたものを大いに凌(しの)ぐものにしようとした」と記されている。
■大坂夏の陣のときには防御機能が失われていた
同書では続けて、秀吉の大坂城築城の意図を「己の名と記憶を残す」ところにあったと指摘する。信長亡き後、秀吉は畏敬されるとともに、一度決めたことは成し遂げる人物であると評されていた。この工事では何万もの人夫が動員されたが、それを拒否することは死を意味したとまで記されている。
さらに同書には、城郭が大小の鉄の扉を備えていること、多くの財宝を蓄え、武器・弾薬や食糧の倉庫を備え付けていることなどを記している。さらに、城には美しい庭園や茶室が設けられ、室内は絵画で彩られていたという。一言で言うならば、贅が尽くされたということになろう。
大坂城は難攻不落の城として知られていたが、慶長19年(1614)の大坂冬の陣後の和睦により、堀などが埋め立てられ、惣構も破壊された。これにより大坂城の防御機能が失われたままで、大坂夏の陣を迎えたのである。
■三度にわたり、家康本陣に突撃した信繁軍
5月7日の正午頃、ついに徳川方と豊臣方は激突した。天王寺方面では、両軍入り乱れての大混戦となった。「赤備」の真田信繁の軍勢約3000は、家康の本陣をめがけて突入し、多くの戦死者を出した。信繁は果敢にも三度にわたって家康の本陣に突撃したので、徳川方の歴戦の強者でさえも逃げ出したという。
真田信繁/真田幸村肖像画(写真=上田市立博物館所蔵品/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
家康に従っていたのは、本多政重(まさしげ)と金地院崇伝(こんちいんすうでん)だけだったといわれている(諸説あり)。この戦いが激烈を極めたのは、徳川方の将兵の奮闘ぶりを見れば明らかである。
松平忠直は八尾・若江の戦いで積極的に動かなかったので、家康の不興を蒙っていたといわれている。忠直は名誉を挽回すべく、約1万5000の兵を率いて出陣した。いざ戦いがはじまると、忠直は軍令違反を犯してまでも、茶臼山に攻め込んできた敵兵を蹴散らし、3750もの首を取ったという。
■戦功をあげるために戦い、討死していく武将たち
小笠原秀政は子の忠脩(ただなが)、忠真(ただざね)とともに出陣したが、やはり八尾・若江の戦いで十分な戦功をあげることができず、家康から叱責されていた。そのような事情から、小笠原親子の戦いにかける意気込みは並々ならぬものがあった。結果、秀政は重傷を負ってその日のうちに亡くなり、忠脩は討死した。忠真は戦死こそ免れたが、7カ所もの深手を蒙ったといわれている。
本多忠朝は、大坂冬の陣の戦闘時に酒を飲んでいたため豊臣方に敗れたといわれている。持ち場の不満を述べたので、家康の不興を蒙っていた。忠朝も汚名を雪(すす)ぐため、命を懸けて毛利勝永の軍勢に突撃し、華々しく討死した。死の間際、忠朝は「酒のために身を誤る者を救おう」と遺言したといわれており、その死後は「酒封じの神」として崇められるようになった。
■わずか3時間の戦闘で勝敗が決まった
その後の両軍の戦いを確認しよう。大野治房が秀忠の本陣を攻撃し、毛利勝永や明石掃部が奮闘したものの、劣勢を挽回することはできなかった。この間、両軍の戦闘はわずか3時間だったと伝わる。この時点で、豊臣方の敗北は決定した。信繁は繰り返し徳川軍に戦いを挑んだが、三度目の本陣突入の際に、非業の死を遂げた。信繁の最期の様子は後述することとし、戦闘の経過を確認しよう。
信繁と徳川方の戦いの模様は、井伊直孝に仕えた岡本半介が書状に書き留めている(「大阪歴史博物館所蔵文書」)。最初、松平忠直が率いる軍勢と真田信繁の率いる軍勢が天王寺で交戦し、1時間ばかり揉みあいになっていた。
両軍が戦闘を繰り広げている中で、井伊軍が攻め込んできたという。真田軍は城際まで退却し、態勢を整えて反撃を試みた。ところが、井伊軍と藤堂軍が押し返して、真田軍に勝利したという。膠着(こうちゃく)状態の中、疲労困憊(こんぱい)の信繁の軍勢にとって、井伊軍の乱入は致命的な打撃であった。
■休憩中にあっけなく討ち取られた信繁
真田方は兵数で劣っていたものの、よく健闘したのは事実である。当時の記録を見ると、両軍が形勢的に拮抗していたことがわかり、逆に徳川方が押される場面もあったという(『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』など)。当初は、五分五分の戦いを展開していたが、徳川方の軍勢が多かったので、辛うじて真田方に勝利することができたというのが実情らしい。最後は衆寡敵せず、真田軍は大軍の徳川軍に負けたのである。
信繁の最期は、「信繁が合戦場で討死した。これまでにない大手柄である。首は、松平忠直の鉄砲頭が取った。しかしながら、信繁は怪我をしてくたびれているところだったので、手柄にもならなかった」と記されている(『綿考輯録』)。
安居神社の真田幸村戦死跡之碑(写真=KENPEI/CC-BY-SA-3.0-migrated/Wikimedia Commons)
鉄砲頭が信繁の首を取ったのは、もちろん手柄だった。ところが、戦闘の末に取ったのではなく、怪我をした信繁が休んでいるところだったので、価値がなかったということである。信繁の首を取ったのは、松平氏配下の鉄砲頭である西尾久作で、信繁が従者らに薬を与えているところを討ったという(『慶長見聞集』)。信繁は疲労困憊したうえに、少し油断もしていたので、あっけなく討ち取られたのだろう。
■豊臣方の武将たちは「真田日本一の兵」と評価
ところが、『真武内伝』という史料には、信繁と久作が一騎打ちをしたと書かれている。戦いの終盤、信繁は残った兵を率いて、徳川方に突撃すると、深く攻め込んでいった。このとき久作は、信繁の乗っていた馬の尾をつかんで、引き止め、一騎打ちを呼び掛けたという。
ここで二人は、刀を抜いて一騎打ちになろうとした。ところが、すでに十数カ所の傷を負っていた信繁は、戦い続けた疲労もあり、力尽きて馬から転げ落ちた。そこをすかさず、久作が信繁の首を取ったというのである。信繁の首実検の際、家康はこの話を疑ったと伝わっている。信繁と久作が一騎打ちに及んだか否かは不明な点も多いものの、打ち続く戦いで疲れ切っていた信繁が久作に討ち取られたのは事実であろう。
信繁をはじめ、豊臣方の諸将の戦いぶりは、後世に伝わるほど高い評価を得た。島津氏が「真田日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)」と称えているのは、最大の賛辞である(『薩藩旧記雑録(さっぱんきゅうきざつろく)』)。
■内通者が厨房に放火し、大坂城は火の海に
豊臣方は頼みの綱の信繁が討死したので、敗北が決定的になった。ようやくこの段階に至って、秀頼は出陣しようとしたが、敗勢は濃く、もはや挽回できる状況にはなかった。やがて、大野治長ら将兵は、続々と大坂城に戻ってきた。そこで、秀頼は速水守久の助言に従い、不本意ながらも本丸へと逃れたのである。
豊臣秀頼。豊臣秀吉の子(写真=京都市東山区養源院所蔵品/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
午後4時頃、大坂城三の丸に火の手が上がった。台所頭は徳川方に通じていたので、厨房に放火したといわれている。火の手が広がるとともに、勢いあまる徳川方は一気に城内に攻め込んできた。炎は二の丸、大野治長の屋敷にまで広がった。豊臣方は、城外に脱出する者や城内で自害する者が続出した。豊臣家の重臣・大野治房、牢人の仙石秀範(ひでのり)らも、たまらず城外へと脱出した。もはや反撃の術はなかった。
二の丸では、秀頼の軍旗や馬印を預かっていた将兵が、観念して次々と自害して果てた。女中の「おあちゃ」は、放置された馬印がそのままになっていると恥辱になると考え、ほかの女中と馬印を回収すると、敵の目に触れないように粉々に打ち砕いたと伝わっている(『おきく物語』)。もはや、本丸に火の手が移るのは時間の問題だった。
■秀頼と淀殿の助命は叶わず、千姫のみが脱出
城内に残った大野治長(はるなが)は、最後の力を振り絞って、何とか千姫を脱出させようと試みた。徳川方に秀頼と淀殿の助命を請うべく、治長自身の命と引き換えにすることを申し出たという(『駿府記』)。
しかし、千姫が大坂城から脱出することは成功したが、秀頼と淀殿の助命は叶うことがなかった。徳川方に保護された千姫は、のちに本多忠政の子・忠刻(ただとき)の妻となった。なお、秀頼と千姫の間に実子はいなかった。
千姫の救出で尽力したのは、坂崎直盛(宇喜多詮家(あきいえ))である。その際、直盛は千姫をもらい受ける条件になっていたという説がある。しかし、先に触れたとおり、千姫が再婚した相手は、本多忠刻だった。すっかり面目を潰された直盛は遺恨を抱き、元和2年(1616)に千姫を奪還する計画を立てた。ところが、すでに計画は幕府に露見しており、直盛は捕縛されたうえ、自害に追い込まれたと伝わっている。
■秀忠は再び反旗を翻した二人を許さなかった
渡邊大門『天下人の攻城戦 15の城攻めに見る信長・秀吉・家康の知略』(朝日新聞出版)
大坂城から退去した千姫は、夫の秀頼と義母の淀殿の助命を嘆願するため、家康と秀忠に書状を送ったといわれている。その内容は毛利秀元の書状に、「大御所様(家康)は、将軍様(秀忠)次第であるとご意見を述べられた。秀忠様のご意見では、一度だけのことではないので(一度目は冬の陣)、早々に(秀頼と淀殿は)腹を切らせたほうがよい、とのことであった」と記されている(『萩藩閥閲録遺漏(ばつえつろくいろう)』)。
家康は現職の将軍・秀忠に判断を委ねたが、豊臣家は大坂冬の陣で和睦を結んだにもかかわらず、再び叛旗を翻した。それゆえで、二度目はない(秀頼も淀殿も許さない)との意見だった。
7日の夕方になると、大坂城の天守が炎上し、ついに落城の瞬間が近づいてきた。岡本半介(井伊家家臣)の書状によると、大坂城に火の手が上がったのは、午後4時頃だったという(「田中文書」)。京都の清涼殿からも、大坂城の火の手が上がる様子が見えたという(『土御門泰重卿記』)。
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渡邊 大門(わたなべ・だいもん)
歴史学者
1967年生まれ。1990年、関西学院大学文学部卒業。2008年、佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。主要著書に 『関ヶ原合戦全史 1582‐1615』(草思社)、『戦国大名の戦さ事情』(柏書房)、『ここまでわかった! 本当の信長 知れば知るほどおもしろい50の謎』(知恵の森文庫)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)ほか多数。
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(歴史学者 渡邊 大門)
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引用元:https://news.biglobe.ne.jp/economy/0901/pre_230901_0050022862.html