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NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』は、江戸時代を舞台に、吉原遊郭で版元として成功した蔦屋重三郎が主人公である。浮世絵などの煌びやかな文化を生んだ一方、性売買が行なわれていた歴史を持つ吉原遊郭を扱った作品や展覧会は、これまでもたびたび議論を呼んできた。本作もSNS上では賛否両論が巻き起こっている。この題材を扱うことの難しさについて、吉原にある日本唯一の遊郭専門書店「カストリ書房」を営む店主・渡辺豪さんに話を聞いた。
■吉原が生んだ絢爛豪華な文化と過酷な境遇の二面生
――『べらぼう』が放送されたことで、実際の吉原(現在の地名は東京都台東区千束)に何か変化や影響はありましたか。
渡辺豪(以下、同) 第2回が放送された翌日が成人式の祝日だったせいもあってか、普段は見かけないくらい多くの街歩きの大集団、とくにお年を召した方々がリュックを背負った姿をお見かけしましたね。あんなに多くの人が吉原の街を歩いているのは初めて見ました。
近年メディアで大きく遊郭が取り上げられた作品で言えば、2019年に『鬼滅の刃』遊郭編がありましたが、その時は私の見る限り、聖地巡礼といった街歩きには展開されず、無風でした。コロナもありましたしね。
――『べらぼう』を観た視聴者によるSNSの投稿を見ると、性売買を肯定している、などの批判が多く寄せられています。
『べらぼう』を観る難しさは、史実に基づいているとはいえ、テレビドラマという虚構を用いて描いている点です。もしこれが「史実を忠実に描いた再現映像」であれば、歴史的事実と違いがあれば駄作、正確であれば名作と、観る側に求められることは単純です。
しかし、フィクションを前提とした場合、何を描くのか、何を描かないのか、描くのならどう描くのか、そこは制作側の価値判断が介在しているので、このフィルターを一度通したものを観ていることを自覚する必要があります。
――遊女に関しては、絢爛豪華な側面がある一方、性の搾取構造の中で悲惨な境遇にあった、という歴史があります。
NHKとはいえ、視聴者の期待に応えるため、ある程度は遊郭の煌びやかな側面を押し出すのは避けられないだろうし、娯楽性の強いドラマである以上、そうした展開は当然だとも思います。反面、悲惨な残酷描写をふんだんに入れたからといって、ドラマから得られる喜びや学びは乏しいのではないかと思います。
いわゆる残酷物語的なフィクションは、視聴者に安易なカタルシスを与えるだけです。興味が育たず、そこで「スッキリ」して終わってしまう。民放なら気に掛けないかもしれませんが、当時の社会構造や人々の価値観、背景も含めて描いてほしいなと。受信料を徴収されている私としては、NHKにその水準を期待しています(笑)
■性売買に積極的に加担した蔦屋重三郎
――明暗の両面だけでなく、さらにその裏にある歴史的背景も含めて描く必要がある、と。
そもそも「明暗」はどちらかを選べるのでなく、分離できない対になっているものだと考えます。吉原で栄えた文化の側面を描く際に問われるのは、遊女が高い教養を身につけたり、豪華な着物を着たり、浮世絵で美しく描かれるのはなぜなのか。それらの少なくないものは吉原を繁栄させることが目的でした。
今でいう宣伝活動・プロモーションですね。言ってしまえば、性売買をより活発にするための活動だった。そのような活動を、現代に生きる私たちが、当時の社会の目線と同じように「文化」と呼び、愛でるだけでいいのだろうか、ということです。
――2024年に東京藝術大学大学美術館で開催された『大吉原展』は、まさにその文化的側面の価値や美しさのみにフォーカスしたことが問題視されました。
たとえば、個人の浮世絵コレクターが趣味で集めた作品を並べて「綺麗でしょう」と展示しても、批判は集まらないでしょう。しかし藝大に求められることではない。
吉原で生まれた文化を紹介するのであれば、「これらは性売買を促進するために作られた」という背景まで含めて、きちんと前面に出すべきだったと思います。文化と社会あるいは経済を分離して扱ったことが手落ちだったと思います。
――そう考えると、『べらぼう』の主人公・蔦屋重三郎の果たした役割についても、慎重になる必要がありますね。NHKでは「江戸のメディア王」というキャッチフレーズで肯定的に宣伝していますが。
蔦屋重三郎が手がけた『吉原細見』や浮世絵は、先ほども言ったように、吉原遊郭を活性化させるための広告物です。それで吉原が経済的に潤ったとしても、遊女たちを救済する根本的解決策にはならない。
むしろ、性売買業界に積極的に加担し、さらに不幸な遊女を増やしてしまう。ドラマはまだ始まったばかりなので早計は慎みますが、こうした加担の側面を等閑に付したまま「メディア王の功績」として最後まで扱ってしまったら残念ですね。もう大河は観ません(笑)。
こういう話をすると、反論として「現代の倫理観や道徳を押しつけるな」「当時と今は違う」という声が上がります。でも、「再現映像」ではなく、ドラマはドラマです。現代人が観るために用意された作られたフィクション作品である以上、現代の基準で観た時に魅力的であることが必要ではないでしょうか。
そうでなければ、わざわざ現代に作る意味がなくなってしまう。何より蔦屋重三郎という登場人物に私たちは魅力を覚えることができない。ドラマとして成立しない。
■遊郭を生み出した社会課題はなくなっていない
――「当時と今は違う」という意見に対して、遊郭はなくなったとはいえ、その跡地では今も多くのソープランドが軒を連ねて営業している現実があります。
吉原遊郭はなくなったけれど、遊郭を生み出した社会課題はなくなっていない、ということですよね。ソープランドその他の現代性風俗業で働いている女性と、かつての遊女を混同できないことは言うまでもありませんが、地続きの問題を今も抱えている点は見逃してはいけないと思います。
だからこそ、フィクションであったとしても、「当時は当たり前」で済ませたくないのです。
男は女を支配できるという考えが生き延びているからこそ、戦後に遊郭制度は廃止されても、赤線として延命された。ここ数年に限っても、オリンピックやコロナといった時代の荒波に社会が洗われるとき、男性による女性へ向けた性加害や尊厳の軽視が繰り返し顕在化している。
先ほども述べたとおり、ドラマには制作側の意図が投影されている。その意味で、過去を扱ってはいても、現代の視点、そして現代の問題なんです。
――ほかにも、メディアが遊郭を扱う際に、気をつけなければならないことはありますか?
遊郭をはじめ、性売買に従事する女性たちの境遇を考える時に、経済状況について、つまり、「どれだけ稼いでいるか?」という視点は多くの人の関心を呼ぶのか、よく取り上げられます。ネットニュースでもよく見かけますよね。
例えば「低級な遊女もいたが、同時に高級な遊女もいた。だから悲惨な側面ばかりではない」とする考えです。私は少し危険に感じます。対価さえ与えれば構わないという論理と隣接している。昨今の示談金騒動とまったく相似形だと思いませんか?
さらには「稼ぎの低い人は、人間としても価値が低い」といった価値観と連動している。
――ちなみに、これまでに遊郭が舞台となったフィクションで、そのあたりがきちんと描かれていると感じられる作品は?
きちんと描けているか、という質問の答えにはなりませんが、多くの人の記憶に強く残っているのは、五社英雄監督の『吉原炎上』(1987年公開)ではないでしょうか。名取裕子さん演じる主人公は、少女が豪華で煌びやな存在に成り上がっていく、分かりやすいステレオタイプな遊女像です。彼女を軸にストーリーが展開されます。
一方、かたせ梨乃さんが演じるのは不器用な遊女で、最下層の遊女に身を落としてしまう。名取さんよりかたせさんの役柄が好き、という人は少なくないのではないでしょうか?
同作の舞台は明治末期ですが、合理性を良しとする近代明治にあっては「不器用」と切り捨てられてしまう生き方の中にも、私たちが忘れてしまった大切なものがあるのではないか、という五社監督の問いかけが、かたせさんの役に投映されているのではないでしょうか。
だから、少なくない人がかたせさんの役に惹かれてしまう。名取さんの役だけ、かたせさんの役だけでは成立しない。明暗が対の関係にあるからこそ活きる。そして「名作」として語り継がれている。
――『べらぼう』のかたせ梨乃さんは「場末の女郎屋の女将」という役を演じていますね。
かたせ梨乃さんの『べらぼう』での役名は「きく」ですが、『吉原炎上』では「菊ちゃん」と呼ばれる役です。江戸時代の中期が舞台の『べらぼう』と、明治時代の末が舞台の『吉原炎上』では時代設定がだいぶ異なりますが、その精神性は受け継いでいる、という制作者の意図を感じますね。ある種のファンサービス、五社監督へのリスペクトですかね。
――そもそも渡辺さんが遊郭の文献や資料を収集するようになったきっかけは?
小さい頃から、声の小さい人、言葉を持たない人への興味がぼんやりありました。その最たる存在は遊女じゃないだろうか、と思い、遊廓や遊女に感心を持つようになりました。私たちは小学生の頃から、政財界の偉人のあれこれを習いますよね。大人になって博物館へ行くようになっても同じです。
もちろん各界のリーダーのお陰で私たちの生活、例えば蛇口をひねれば美味しい水が出るし、スイッチをひねればお湯が沸く、こうしたことを当たり前に享受できるありがたい世の中になっている。リーダーには感謝しても感謝しきれない。
でも、リーダーや成功者の陰で、容易ではない現場の労働に従事して、名も残さず消えていった数え切れない人々がいたことも忘れたくありません。なぜなら、私もまた「名もない人間」の一人で、そうした人を軽視する社会になったら、私にとって苦しい社会になるからです。
■歴史を物語としてだけ消費してほしくない
――遊郭のことを調べていくうちに感じた、印象的なことはありますか?
遊郭と呼ばれる場所は明治の初め頃には600箇所弱に達していました。少し大げさですが「ない場所はない」状態です。私はこのうち約500箇所へ現地へ赴いて取材しましたが、実感として、地元の人ほど無関心です。
例えば、ここ吉原では、戦後の娼婦たちが結成した労働組合があって、昭和31年に公布された売春防止法に猛反対しました。娼婦たちにとっては、売春防止法が施行されると、職を奪われるだけでなく、犯罪者扱いされてしまう。
もちろん嫌いな仕事ですが、例えば先の大戦で夫や父親を亡くした子持ちの女性を雇って満足な給料を払ってくれる会社がどれほどあったか。吉原は生き延びるために大事な仕事でもあった。
誤解ないよう言い添えると、セーフティネットだから吉原を残すべし、ではなく、吉原がセーフティネットになってしまう社会を是正することが先である、という主張です。
これは昔の話ではなく、1956年、たかだか70年前の話です。でも、今回の大河がそうであるように、私たちは絢爛豪華で自由奔放に描かれる江戸時代が大好きで、お爺さんお婆さんの時代のことをとっくに忘れようとしている。
――カストリ書房で遊郭関連の書籍を買い求めるのは、女性のほうが圧倒的に多いと聞きました。
購入者の9割は女性です。想像にはなりますが、やはり自分ごととして捉えているからではないでしょうか。一方の男性は、歴史や社会学の棚ではなく、エロチックな本や風俗のハウツー本などの棚に直行する方が多いですね。
――最後に、『べらぼう』をきっかけに遊郭へ関心を持った人へ伝えたいことは?
ぜひ、吉原遊廓跡に足を運んで欲しいですね。東京都以外にお住まいであれば、近所に残っている遊廓跡へ。本を売る仕事をしていながら矛盾したことを言うようですが、本で得た知識は大切だけど、それがすべてではない。
実際にその場に立ってみれば、感じるものがあるはずです。するとさらに興味が湧く。本と現場の往復を繰り返すたび、「歴史」はもっと喜びを与えてくれるはずです。傾向として、遊郭だけの話ではなく、あらゆる歴史に言えることですが、多くの人が歴史を物語に置き換え、その物語だけを受け継いでいるような気がします。
物語だけを観て、現実感のないまま「江戸時代のファンタジックな吉原って素敵」という思考になってしまうような。ですので、歴史に興味を持ったら、物語だけを消費するのではなく、史実にも当たってほしいなと思います。
取材・文/おぐらりゅうじ
カストリ書房■遊廓・赤線・歓楽街といった遊里史に関する文献資料を専門に販売する日本唯一の遊郭専門書店。2014年、幻とされてきた『全国女性街ガイド』を約60年ぶりに発掘・復刻するなど出版も精力的に行なっている。
カストリ書房ホームページ:https://kastoribookstore.blogspot.com/
]...以下引用元参照
引用元:https://news.nifty.com//article/item/neta/12378-3832394/