「生き延びたから命がつながった」語らなかった祖母から受け継ぐ沖縄戦 戦後80年【報道ステーション】(2025年6月23日)
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■記憶をたどり歴史の伝承へ
沖縄戦が終結して80年。軍民、国籍を問わず、戦没者一人ひとりの名前が刻まれている『平和の礎』には今年も新たに342人の名前が刻まれ、その数は24万2567人に上りました。
大越健介キャスター
「ここに来るたびに思うのですけど、礎に刻まれた人の名前の数の膨大さに圧倒されます。これだけの人の名前を明らかにするだけでも、きっと大変な作業だったんだろうと想像しますし、それは今も続いていて、ここに記される戦没者の名前は今も増え続けています。そして80年という月日を経たこともあるのかもしれませんが、今年は特に若い人たちの姿が目立つ印象を持ちます」
沖縄県 玉城デニー知事
「この地で繰り広げられた、住民を巻き込んだ沖縄戦の実相と教訓を、県民一丸となった不断の努力によって世代を超えて守り伝え続けていくことは、今を生きる私たちの使命ではないでしょうか」
石破茂総理大臣
「私たちが享受している平和と繁栄は、この地で命を落とされた方々の尊い犠牲と、沖縄の歩んだ筆舌に尽くし難い苦難の歴史の上に築かれたものです。改めて深く胸に刻みながら、静かに頭を垂れたいと思います」
■平和の詩「つないでくれた命」
これからの沖縄を担う児童・生徒の作品から選ばれた、今年の平和の詩『おばあちゃんの歌』。
伊良波小学校6年 城間一歩輝さん
「毎年、ぼくと弟は慰霊の日におばあちゃんの家に行って仏壇に手を合わせウートートーをする
1年に1度だけおばあちゃんが歌う
『空しゅう警報聞こえてきたら 今はぼくたち小さいから 大人の言うことよく聞いて あわてないで さわがないで 落ち着いて 入っていましょう防空壕』
5歳の時に習ったのに80年後の今でも覚えている
笑顔で歌っているから 楽しい歌だと思っていた
1年に1度だけおばあちゃんが歌う
『うんじゅん わんにん 艦砲ぬ くぇーぬくさー(あなたも私も艦砲の食べ残し)』
泣きながら歌っているから悲しい歌だと分かっていた
歌った後に『あの戦の時に死んでおけば良かった』と言うからぼくも泣きたくなった
沖縄戦の激しい艦砲射撃でケガをして生き残った人のことを『艦砲射撃の食べ残し』と言うことを知って悲しくなった」
城間さんの祖母はご先祖様に手を合わせる、ウートートーの後にしか戦争の話をしないといいます。
伊良波小学校6年 城間一歩輝さん
「手榴弾を壕の中に投げられおばあちゃんは左の太ももに大けがをした
うじがわいて何度も皮がはがれるから
アメリカ軍の病院でけがをしていない右の太ももの皮をはいで
皮ふ移植をして何とか助かった
おばあちゃんに生きていてくれて本当にありがとうと伝えると
両手でぼくのほっぺをさわって
『生き延のびたくとぅ ぬちぬ ちるがたん』
生き延びたから命がつながったんだねとおばあちゃんが言った
人の命を奪い苦しめる戦争を2度と起こさないように
おばあちゃんから聞いた戦争の話を伝え続けていく
おばあちゃんがつないでくれた命を大切にして
一生懸命に生きていく」
■語らなかった祖母から受け継ぐ
詩を詠み終えて、祖母らと向かったのは平和の礎。赤嶺俊弘さんは1歳で亡くなった祖母の弟です。詩で詠んだ、1年に1度だけのウートートー。
城間さんの祖母 比嘉キヨ子さん(85)
「私が一生傷だらけの人生を送るより、死んでも良かったと思う時もあると聞かせると泣く。『おばあがいて良かった』と」
(Q.どうせなら死んだ方が良かったと言った時、どんな気持ちに)
伊良波小学校6年 城間一歩輝さん
「悲しい。『艦砲射撃の食べ残し』のことを聞いて悲しい」
(Q.そのことを聞かれてつらいところも)
城間さんの祖母 比嘉キヨ子さん
「ありますけど、孫のためだから全部教えないと。初め教えたくなかった。恥ずかしい。みんなにけがを知られたら困る。孫が大きくなったから教えないと」
(Q.おばあさんの話を、これからも伝えていかないといけない気持ちは)
伊良波小学校6年 城間一歩輝さん
「ある。戦争を起こしたらだめだから、ちゃんと伝えないといけない」
■『ひめゆりの塔』石破総理が訪問
今年、注目を浴びた慰霊祭がもう1つあります。ひめゆりの塔の慰霊祭です。
ひめゆり同窓会 知念淑子会長(96)
「資料館の展示や沖縄の平和教育を否定する発言がなされ、非常に憤りを感じています」
負傷した日本兵の看護のために動員された少女たち『ひめゆり学徒隊』。その展示について、自民党の西田昌司参議院議員が「歴史の書き換え」などと発言したことに、怒りの声が上がりました。
ひめゆり平和祈念資料館 普天間朝佳館長
「元学徒の皆さんが血のにじむような思いで展示を作りあげてきた努力を踏みにじるものであり」
ひめゆりの同窓生 翁長安子さん(96)
「一番悲惨な戦争を体験した沖縄県民に対する侮辱。死んだ人たちの魂は、遺族や友たちは皆覚えてる。だから悔しい」
現職の総理大臣が慰霊の日にひめゆりの塔を訪れるのは、村山総理以来30年ぶりのことです。
■ひめゆり学徒の記憶と記録
歴史の記憶と記録。証言をもとに、ひめゆりの資料館は刻み続けてきました。
大越健介キャスター
「生徒たちの集合写真、はじけるような笑顔ですね。まぶしいような。きっとどこにでもあった10代の生徒たちの笑顔なんでしょうね」
この1年後。戦渦に巻き込まれ、136人が亡くなります。
大越健介キャスター
「沖縄戦で亡くなった生徒たちの顔写真と、そして驚くのは、どのようにして命を落としていったのかが、詳細にここに記されているということです。お名前と、そして攻撃を受けて亡くなったという書き方もあれば…。全てがこれは検証された記録だと思います。事実の重みを感じます」
ひめゆりの実相を残す場所がもう1つ。ひめゆり学徒隊が動員された陸軍病院。人の手で掘られた横穴『壕』です。横幅は1メートル80センチ。その半分がベッドに割かれました。満足な薬や食料もないなか、少女たちは運び込まれた日本兵の看護に必死にあたりました。
南風原文化センター 保久盛陽学芸員
「激務で過労で倒れていく学友たちがいて、休むスペースがなかったり、土壁にもたれて眠るしかなかったと」
大越健介キャスター
「何という…何という病院なんだろう、ここは。泣けてくるような思いがするんですが、ここでまさに病、けがに倒れらた人が。病特有、けが特有の匂いもあるでしょうし、体臭があるでしょうし、そういう中を駆け巡って、ひめゆりの学徒の皆さんとかが一生懸命奉仕されていた。ちょっと想像がつかないけども、ここに来ると、そのことが少し、今生きている我々も分かりますね。少しではありますけど」
■実相の伝承 生かされた者の使命
アメリカ軍の攻撃が激しさを増すなか、6月18日、ひめゆり学徒隊は日本軍から突然、解散命令を告げられます。少女たちは“鉄の暴風”と呼ばれる砲弾の嵐の中を逃げ惑い、犠牲者の8割以上が解散後に命を落とすことになりました。
80年経った今、実相を語れる語り部の多くが亡くなり、経験した人は減る一方です。与那覇百子さんも、去年11月に亡くなりました。ひめゆり学徒隊に動員されたのは16歳の時。壕で目の当たりにしたのは、アメリカ軍の爆撃を受け、変わり果てた友人の姿でした。
元ひめゆり学徒隊 与那覇百子さん(当時86歳)
「あのモンペは貞子さんのものに似ているけれどもと、独り言を言いながらどんどん壁にくっついていった。それが貞子さんなんですよ。貞子さんは壁にくっついちゃって、髪の毛もありませんでした。手も爪もありませんでした。骸骨になっていて、あばら骨が出ていました。それを見せられた私は震えましたね」
息子の満さん(71)は、母の語り部としての決意を感じていたといいます。
(Q.自らの経験を語る時、お母様はどんな思いで人々に向かっていましたか)
与那覇百子さんの息子 満さん
「かなり淡々としゃべる人だった。そんなに感情をあまり出さない。『こんなひどかったのよ』と言えたかもしれないけど、心の中に抑えつけているものがあるのかなという気もしました。使命感はあったと思う。そのままにしてはいけないと」
母の意志を継ぎ、体験を語り継ぐ講演活動を始めようとしている、満さん。歴史を否定し、修正するかのような動きに危機感を募らせています。
与那覇百子さんの息子 満さん
「母はずっと講演活動をやっていた。『私たちはいったい何をやっていたの?情けない』と思うのではないか。本当は正直言って『もうおしまいにしよう』とも思った。父も母ももう亡くなってますし。ただ、今の社会情勢とか、各地で戦争が起こっているのとか、沖縄の人たちの神経を逆なでするような発言をする人が出てきたり。それを考えたら何かできないかなと。危うさを感じた。だから、ちゃんと知ってもらいたい」
[テレ朝NEWS] https://news.tv-asahi.co.jp
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